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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

『お嬢さん』の点対称、線対称、非対称

映画

わたしの身近にいる人の中で格段に妖艶でエロ戦闘力の高い美女が、「よだれが垂れるほどエロかった」「侍女がほしい。侍女が……侍女……」などというものですから、ぜひにも観に行かねばいけないと思っていた韓国映画『お嬢さん』。


なんだかんだで観に行くきっかけを失っているうちにレイトショーだけになっていたので、先日、21時20分からの回に滑り込みました。いやー面白かったですね。
全盛期の松嶋菜々子が演じた桜子(やまとなでしこ)をなよやかにしたみたいな雰囲気のお嬢さんと、石野真子の若い頃みたいに未開発のアイドル感のある侍女。この2人のキャスティングが絶妙。

でもあたし、これが2時間47分もある長尺映画だって知らなかったからさ。
開始時間が開始時間なので映画の前にビールなどもある程度飲んでるじゃないですか。さらに劇場でも生ビールを買って持ち込んでしまったもので、2時間ぐらい経過した時点で激しい尿意を催しまして、後半はずっと、脚を激しく組み直したり、前屈したり、座席でもぞもぞしながら耐えるはめになってしまった。リアル拷問。しかし、後方座席の客から見れば、スクリーンにあふれるエロスに我慢ならなくなって、なにやらヤバいことになっている変態女に見えたかもしれませんね……。さすが自分、いい仕事するなあと感心しました。


気を取り直して、どんな映画かと申しますと、舞台は日本が統治する1930年代の朝鮮。日本人華族の令嬢と、その叔父が暮らす豪邸に、メイドとして送り込まれた女性と、伯爵を騙って潜り込む詐欺師が四つ巴となり、やがて愛憎入り交じり……。原作は英国人ミステリ作家、サラ・ウオーターズの『荊の城』。19世紀半ばのロンドンを舞台にした原作からの換骨奪胎も鮮やかな異色のエロティック・ミステリーでございます!


とはいえ、事前情報ゼロからストーリーの要諦をつかむのは結構難しい。日本語カタコトだしさ。
けれども、3部構成の3部ごとにきっちりとどんでん返しが用意されているので、たいがいなうっかりさんでもドキドキハラハラとサプライズは十分に楽しめる。エロティックな描写もすごく美しい。でもなんというか、最もぐっとくるのは、映画全体として「男イラネ〜」と、バッサーと男性を切り捨てる爽快感なんですよね。

以下なんとなくネタバレがあるようなないような。


画として最も印象に残ったのは、女同士の絡みのシーン。
前半ではいわゆるシックスティナインの体位で女性同士が絡む様子を俯瞰するシーンが、後半では、ベッドの上で立て膝でくちづけを交わす姿を真横から撮るシーンが出てくるのですが、前者は美しい点対称、後者は美しい線対称であることが強く強く印象に残りました。ま、いってみれば当たり前の話なのだけど、同性同士のセックスシーンならではの対称性の美しさに改めてハッとしたといいいますか。

普段スクリーンで見る男女のセックスシーンというと、絵面としても関係性としても往々にして非対称で、見た目にも本質にも上下関係があるのが当たり前だったりするので、なんかそこにピュアな美を見たような気分になったのね。

もちろん、そこは意識してそう撮られているのだと思う。映画の構造を際立たせるために。


そもそも、4人の主要登場人物のポジションが物語の進行にともなってカチカチと変化する様子が、ボードゲームを見ているような対称性があって面白いのです。

1部では、屋敷の主である「叔父と姪(お嬢さん)」と、それを利用しようとする「詐欺師と手下(侍女)」という、男を上位とした男女2組が対になっているのだけど、2部、3部で位相が転換し、最後には、「愛し合う女ふたり」と「自滅する男ふたり」として終わる。女を搾取することで成立していた「男の幻想世界」は、その論理に与しないことを決意した女によって滅ぼされ、取り残された男たちは、自分たちだけで新しい世界をつくろうとせず、痛めつけ合って滅びるというね……。


女たちは睦み合い、男たちは嗜虐する。
このラストには笑ってしまいました。

いやもちろん、わたしだって、男が何がなんでも憎いわけではないけれど、こういう構図は今だって、いたるところにあふれているからさ。相手が女であれ男であれ、一方的に利用しつくそうとし、そこからの離脱を暴力で抑えられるとする考えは長期的に見て何ももたらさないし、生み出さない。利用する側の自我と誤った権力意識を肥大させるだけじゃないの、と。


支配・被支配が横溢する現実でも、このように鮮やかなパラダイムチェンジが各所で起きて、新しい世界や愛がたくさん生まれてくることを願います。

写真は対称性の美しいヴィトンのウインドー。2013年のもの。ヴィトンのウインドーはいつもいいけど、この「虫シリーズ」はほんまに最高やった。

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I love you , but I am not belong to you.

映画

アマゾンプライムで『ティファニーで朝食を』を再見した。

 

 

4年前にこんな感想を書いていたのだけど、まあ印象はあまり変わらない。というか、以前よりもポールのアホさにあきれた。

形式的にはハッピーエンドなのだけど、全然ハッピーエンドに見えない。だいたい、ポールの「I love you, You are belong to me」てなセリフがアホすぎると思う。


愛しているから君は僕のもの、などという言葉が寝言でないと信じられるのは彼が善良であるがゆえだが、所詮そんなものは危険思想だ。人間は、自分から見ることができる他者の一側面を愛し得るにすぎないし、もちろんそれでいいのだ。だから何か愛したいものがあるなら一側面を精一杯愛せばよく、自分が理解できない側面をも含めて人間を所有しようなんて傲慢すぎる。「I love you, but I love me more」と言い放って男と別れた『セックス・アンド・ザ・シティ』のサマンサの爪の垢でも飲め。どうしてもそう思い合いたいなら、その傲慢をロマンチックだと互いに信じられる特異な相手を探して、趣味としてやればいい。

ラストでポールは無理矢理ホリーに幻想を押し付けることにいったん成功したかもしれないが、遅かれ早かれ、彼は本質的に自分のものになどならない彼女を憎み始めるだろう。結局、凡百のネズミ野郎でしかないのだ。

いや、映画としてはとても面白いしよくできているし、男のアホさや、それを思わず受け入れてしまう女のダメさも含めてありそうな話だと思う。しかし、だからこそラストはしんどい。まやかしのロマンスに回収された、一時の甘い癒しにすぎないハッピーエンドから透ける未来が辛いのだ。


しかし、原作は全然映画とは違う、という話を聞いて、トルーマン・カポーティ作、村上春樹訳の新潮文庫版「ティファニーで朝食を」を読んでみることにした。

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

 

 

うーむ、なるほど。面白い。
しかし、映画の印象が強すぎて、そして映画におけるストーリーの改変が激しすぎて、うまく文章を脳内で映像化できず混乱する。ことあるごとにヘプバーンの顔がちらついて、本来なら文章から自然に想起されるべき人物像がうまく立ち上がってこないのだ。しかし、少なくとも小説中のホリーの人間像が映画のヘプバーンと似ても似つかないことは明らかだ。

ヘプバーン演じるホリーは「援護者を要する可哀想な子猫」だったけど、小説のホリーは「檻に入れると死んでしまう野生動物」なのだ。

映画は映画ですごくうまくつくってあるなと思うけど、結局さまざまな改変は「ラブロマンス」という枠組みに回収するためのものであり、そのために物語としての整合性は犠牲になっている。そのへんについては訳者・村上春樹の巻末の解説が素晴らしいので、私がことさらなにもいうことはないのだけど。

映画における男はヒモで、女は娼婦。どちらも権力不均衡な他者依存的な存在という意味で同じ地平に立っていて、そこから抜け出すという共通のゴールがハッピーエンドとされているような節もある。しかし、小説では2人が立つ地平はねじれている。語り手たる「僕」は基本的に傍観者でしかなく、最後まで本質的な意味でヒロインの人生に関与できない。その証拠に名前さえ与えられていないのだ。しかし、ねじれた地平のままで思わず距離が縮んでしまったとき、さまざまな軸で上下関係が錯綜し、互いに擦過傷を与え合う。

富という軸、社会性という軸、インテリという軸、奔放さという軸……。

時代背景とか、うまく読み取れていないところも多いけど、所詮、本質的には他人の人生に関与できないという悲しみと諦念、そして、それをベースにした自由の輝き。

やっぱり、映画の甘い癒しよりも美しいと思ってしまう。

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recovering myself

自分 雑記

 この間、生まれて初めて老眼鏡というものをつくった。

 ずっと視力だけはよかったので、メガネ屋さんでちゃんとメガネをつくるというのも初体験。フレームを選ぶときにずいぶん迷ったのだけど、対応してくれた感じのいいスタッフが根気よくつきあってくれて、最終的に、無難に似合う濃色の樹脂フレームのシュッとしたやつじゃなく、リムは華奢なゴールドのワイヤーでテンプルは明るいベージュ、そしてまん丸じゃないラウンド型という、どちらかというとあたしっぽくないやつを選んだのであった。

 できあがりまでに2週間ばかりかかるということで、受取票だけをもらって帰るとき、メガネが似合う感じのいい担当者が「すごくいいと思いますよ! とてもお似合いでした。これを機会にメガネを好きになってくださいね」と言って送ってくれた。
「メガネを好きになってくださいね」というセリフに、仕事を愛している感じが出ていて、いいなあと思った。

 で、先日それを受け取りにいったところ、別の人が応対してくれたのだが、メガネと一緒に持ってきてくれたケースを見てびっくりした。メガネは確かに私が選んだやつに違いないけれど、ケースにアニエスベーと書いてある。え、あたしが選んだフレームってアニエスだったのか。そんなはずじゃなかった気がするんだが……。疑問に思いながらも特に追求せず受け取ったのだけど、なんとなく、あたしぐらいの世代にとってのアニエスというのは、とても懐かしくて、でも、終わってしまった過去のブランドで、そのケースを持ち歩くのちょっと恥ずかしいなあ、しまったなあ、買うときにもうちょっとブランドを確認したらよかったなあと思ったのだ。

 まあでも、メガネ自体は大変素晴らしくて、夕方あたりになると格段にぼやけ始めていた視界を、きちんとクリアに補正してくれる。軽くてかけ心地も悪くなくて、かけるたびに、視力にはこんなに手軽な補正方法があってよかったなあなどとしみじみ思う。ケースもしっかりしたハードタイプなので、粗忽な私が扱っても今のところメガネに疵などはついていない。

 で、今日、ふとメガネを外してテンプルの裏側をよく見てみたところ「LAGUNAMOON」って書いてあることに気づいた。やっぱアニエスと違うやん……。誰かのと間違われたのかな。

 ケースの内側には「b. yourself !!」っていう素敵なメッセージが書かれているのだけど、ケースと中身が違うことがはっきりした今となっては、現実とメッセージとのギャップがなんか滑稽。でもまあいっか。衰えた目の機能を補正したぐらいで「自分自身」になれるかどうかは知らないけど、自分のなにがしかの不足を補うために道具の力を借りようとするとき、目にするメッセージがポジティブなもの、というのは悪くない。そしてもちろん、自分だけのためにカスタマイズされた頼れる道具が身近にあるという安心感も、悪くない。

 結局のところ、けっこうメガネが好きになったので、親切な担当者さんとの約束は果たせたみたいで、よかった。

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才能のキラキラに照らされる

展覧会 自分

この2月、兵庫県立美術館で、特別展「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」を見た。

いわゆるアール・ブリュットの第一人者だそうだが、無学な私は知らなかった。
企画・監修は甲南大学文学部の服部正准教授。巡回はこのあと名古屋市立美術館、東京ステーションギャラリーだけということなので、兵庫県立美術館主導の企画展なのだろう。素晴らしい。

www.artm.pref.hyogo.jp

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ヴェルフリの作品は、余白恐怖症かというようなびっしりとした描き込みや、自意識が過剰にあふれたモチーフの反復性などに特色があり、それがいわゆる「アール・ブリュット」らしさでもある。それ故かどうか、複数の人から「見ると消耗する」という感想を聞いた。

見ているうちに他人の自意識の爆発(≒狂気)に飲まれる、ということだろう。それは分かる。しかし、私の知る中で、いつも抜群に冷静で、客観思考や物事の相対化に長けた年長の男性までもが「見るのがしんどかった」と言っていたのはさすがにちょっと意外に思った。

私は割と安易に他人の感情に共振してしまうタチで、映画を見て冒頭10分で滂沱の涙、ということも珍しくないのだが、ヴェルフリの作品を見ることに関しては辛さもしんどさもなく、見ていて単純に楽しかった。確かに圧迫感はあるし、描き手の苦悩が迫ってくる絵が多いが、それはそれとして、その過剰さを担保している天才性が痛快で、見ているこちらの気分は、ひたすら晴れやかであった。

それでひとつ思い出したことがある。

過去、私には大好きな彼氏がいたのだが、その人はけっこうおかしな、というか、控えめにいってもかなり個性的な人だった。しかし彼はまた、私がそれまでの人生で出会った人間のうち、抜群に頭がいい人でもあった。いや「天才」だった。たぶん。少なくとも私にとっては。
仕草がやたらとふにゃふにゃしていて、常にニコニコしている割に言葉が辛辣で、本にしろ映画にしろ残酷な表現物を好み、見た目も特に男前ではなかったけれど、彼の周囲の人たちには、いつの間にか彼の口癖や行動が感染し、だんだん彼に似てくる。その奇妙な影響力を考えても、ある種のカリスマを持っていたことは間違いないと思う。とはいえ、当時、彼の天才性について私ほど確固たる信念を持っていた人間も他にいなかったのではないか。私は「生まれてこの方、ずっと彼のようになりたいと思っていた」。ということに彼に会って初めて気づいた。端的に言って心酔していた。

いろいろあって彼との恋愛はあんまりうまくいかなかったけど(いくはずがない)、私にとっては何しろ忘れられない人で、会えなくなってからも繰り返し思い出しては、その行く末を気にかけていた。

あるとき、私をナンパしてきた好青年に、その彼のことを熱心に語って聞かせたことがあった。
近鉄の上本町の駅前で、まずはお茶を飲みながら、その後、お好み焼きを食べながら。
とにかく自分には、忘れられない大好きな人がいるのだ、と。
すると、思いのほかその話を熱心に聞いてくれた彼は「モーツァルトサリエリみたい。ぜひ『アマデウス』を見てほしい」と提案してきた。「モーツァルトという天才のそばで、その天才性を見抜いたばかりに苦悩するサリエリに共感するんじゃないか?」と。
 
果たして、後日素直にレンタルビデオ店で『アマデウス』を借りて見た私の感想は、単純に「モーツァルト天才! 素敵!」であった。強く印象に残ったのは才能あふれるモーツアルトの魅力だけ。サリエリの苦悩、なにそれ? という感じ。といっても、もう内容を全然覚えていないのでもう一回見直すと印象が変わっているかもしれないけれど。

私に『アマデウス』を勧めた彼は、言葉の端々に私のコンプレックスの強さを感じたからこそ、モーツァルトサリエリの関係を想起し、そこに恋愛感情や憧憬だけでない屈折を見たのだろうけど、私のコンプレックスは、彼に心酔する材料になりこそすれ、嫉みや憎しみなどのネガティブな感情につながったことなどなかったのだから、件の彼は少し私をかいかぶっていたのかもしれない。

いつか死ぬ体を持っているという点では私と至って平等なのに、中にひそむポテンシャルには圧倒的に差がある嘘みたいな天才性から生み出されたあれこれは、たとえ表現としてどれだけいびつだったとしても、その発端がどれほど苦々しい苦悩だったとしても、いつも私の前でキラキラと眩しくて晴れやかで、私の精神を攻撃したりすることはない。私はどこまでも凡庸な鑑賞者にすぎないのだ、ということを。

 

 

アマデウス(字幕版)

アマデウス(字幕版)

 

 

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絶望の先の希望 窪美澄『晴天の迷いクジラ』

最近、続けて窪美澄を読んだ。どれもいいです。これはデビュー2作目なのかな?

晴天の迷いクジラ (新潮文庫)

晴天の迷いクジラ (新潮文庫)

 

 

機能不全家族で育った」ということ以外は、年齢も性格も共通点のなさそうな3人の男女がひょんなことから行動をともにし、それを契機にそれぞれが直面していた「死」から後ずさり、「生」へと引き戻される物語。無理矢理に読者の感覚のやわらかいところに分け入って、登場人物の主観をぐいぐい植え付けるような生々しい描写が大変しんどいけれど素晴らしい。

1人で留守番させられる幼児の不安に満ちた心情や、密室育児で、すわ虐待に走らんとする母親の心理など、同調しすぎるとこちらの心身がえぐられて疲れる。だれもがみな、自分以外の誰かをコントロールしたり支配したり利用したりせず、自分の生きたいように生きられたらこんなによいことはないけれど、近しい関係の誰かに、相手の人格や事情を無視してほとばしる愛情(という名の欲望)を注がずにはいられない人は実際には珍しくなく、そのせいで本来可能性に満ちた人の未来が狭まり、どんどん不幸になっていくさまがやりきれない。

主要登場人物の3人の中では、16歳の正子の行く末が一番気がかりだが、まあ高校を卒業すれば親から物理的に離れられる可能性は高く、そこに期待が持てる感じにはなっているので、わたしとしてはそれを信じるしかない。とはいえ10代の2年は長いし、人はそうそう変わらないから、なかなかに茨の道であろう。このおはなしを読んでしまった以上、私ももう彼女のおばさんみたいな気分になっているので、本当にこの先幸せになってほしいし、これからも何度も彼女のことを考えてしまうだろう。

48歳の野乃花については、とても辛い経験をしているとはいえ、これまでの行動の何もどこも間違ってないとしかいいようがなく、特に、18歳にして耐えがたい状況から何もかも捨てて逃げたことは大英断だというほかない。あのまま我慢していたら、もっと取り返しのつかない破滅的な未来を引き寄せたことはほぼ間違いないのだから。考え得る最も素晴らしい現在を生きていることをもっと強く自覚してほしい。ま、そうはいっても、あんな社長の下で働くのは絶対に嫌ですけどね……。

由人は、どうなんかな。ださいカッコしててもミカちゃんというおしゃれ女子に見初められるほど素質のあるカラダしてるわけだから、早くその自分の長所を自覚して利用してけばいいんじゃないすかね。がんばって。ま、大丈夫っしょ。

それにしても、好むと好まざるに関わらず、子どもの生殺与奪権を握ってしまう親という立場の恐ろしさが身に染みる。なにものかを大事にいつくしむ「愛」とは素晴らしいものだけど、執着や支配欲と混同しやすく、これほど「混ぜるな危険」な感情もありませんからね。

デビュー作の『ふがいない僕は空を見る』にしろ、この次の『アニバーサリー』にしろ、愛があふれるキラキラと眩しい世界より、愛など幻想に過ぎないという絶望の地平から始める人間関係の方が、ともすれば希望があるということを、窪美澄は繰り返し言っているようにも思う。

あ、海老くん好きです。
「クジラ」という大道具もすごいよかったな〜。


映画とかDVDとか腹筋とか

最近観たりしたもの。


●『マッドマックス 怒りのデスロード』ブラック&クロームエディションを観た。

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相変わらずフュリオサ最高やったし、モノクロバージョンの格調の高さやばかった。
カラーで公開したものをモノクロで公開し直すってかなり変わってるよね? よくわわからないけど。今回は4DX限定だったんだろうか。3D効果はなかったけど、画面はモノクロームの光の影のみ、かつ、劇場内には風が吹いたり、雨が降ったり、粉じんが降ったり、稲光が閃いたりと、なかなか得がたい芸術的没入体験ができて完全に異次元トリップできた。

昨年夏に公開されたとき、確か3Dで観たと思うんだけど、いたく感動したというのに内容をあんまり覚えてない自分にまず驚いたが、まあ、もともと行って帰ってくるだけでのシンプルすぎる構造だし、にも関わらず道中ゴージャスなバトルと人間関係の深い変容が息もつかせぬ速度で展開し、その非言語的な表現に己の感覚をさらして感じて楽しむというタイプの映画なので、あたしのような言語に偏った人間はシーンの詳細など覚えていなくて当然なのであって、ふたたび全く新鮮な気持ちで楽しめてめちゃくちゃお得であった! おまけに昨年は売り切れていて買えなかったパンフも普通に買えた。

いやしかし、荒廃した終末世界におけるマッドなカーチェイスが、モノクロにすることで『ベン・ハー』か、はたまた『十戒』か、なにか歴史的聖戦の様相を呈するのが面白い。監督がいうみたいに世界観にモノクロが合ってるのね。グリースに黒く染まったッフュリオサの顔の中で輝く瞳が美しかったわ。

パンフ買って、映画に描かれていないバックストーリーの片鱗を知り、改めてイモータンの鬼畜ぶりに震えたが、自ら前線に出てゆく正しい悪役ぶりにも改めて感心して悪の魅力に打たれた。いもーたん!(心の中で指を交差させるタイプの合掌をしながら叫ぶ)

そして、2回観ても、最後までマックスが主役であることを忘れていた。
なんしかフュリオサさまがかっこよすぎので、帰ってから無意識で(というのは嘘だけど)家で腹筋30回やった。これからもフュリオサを思い浮かべながら腹筋を続ける所存。

 


●11歳の娘と『インサイドヘッド』を観る

11歳の女の子の脳内を、「喜び」「悲しみ」「怒り」「ムカムカ」「ビビリ」という5つの感情キャラの行動によって解説する……なんて聞くと説教臭くてたまらないが、普通に冒険要素を加えたハートウオーミングムービーであった。主人公が娘と同じ11歳の女の子だったので、感情移入している姿をはたからみているのが楽しかった。うまくできた話だけど、5つの感情のなかで主役級の「喜び」がいわゆる「ポジティブバカ」みたいなキャラであることに違和感。喜びって、そんな「善意」やら「向上心」やらと結びついた感情という実感は私にはないねんなー。どっちかというと、単純に好きな色とか好きな匂いなどの刺激に反射的に湧く感情というイメージ。逆に映画の中では「怒り」が刺激反射的な感情として表現されていたけれど、私の感じる「怒り」はもっと理屈っぽいので、あの沸騰しやすいオッサンキャラにも結構な違和感があった。まあ、人の脳内は千差万別なので、私のインサイドヘッドの喜びはもっとアホで、怒りはもっと気難しいというわけなのでしょう。娘は「私のビビリはもっと大きい!」といっていた。娘は本当に慎重派のビビリさんなので、彼女の物語だったら喜びとビビリがタッグを組んで活躍するのかもしれない。

 

●映画版『セックスアンドザシティ』を見る。

ひとりで仕事していると、たまにすごく寂しくなることがあるので、アマゾンプライムの映画をバッググラウンドムービーにしてみようと。これ公開は2008年なのか〜。たぶん私としてはかなり思い詰めて働いている時期で、『働きマン』読んで泣いたりしてたころちゃうか。娘の保育所時代。それなりにストレスたまってた。映画にはリンクしないが、観ていて自分のそういう時代の気分が甦った。しかし、キャリーはいつ見てもほんまに思い込みが激しいというか、手前勝手というか、人の立場に立てないというか、見ててイライラする女だが、それはおいといて4回泣いた。斜め見なのに……。


1)キャリーがクリスマスにミランダんちに駆けつけるところ
2)アシスタントのルイーズがキャリーからヴィトンもらうところ
3)シャーロットが不安に打ち勝ってジョギングを再開するところ
4)サマンサが「私はあなたより自分を愛している」といって男と別れるところ

 

●映画『海月姫』を観る

メイクしながらとか、ご飯つくりながらとかの「ながら見」アマゾンプライムで『海月姫』。能年玲奈かわいいが、それ以上に、ほぼ全編女装で出てくる菅田将暉の可愛さに驚いた。ほんま可愛いわ。顔ちっちゃい。どんな髪型でも似合うやつや。しかし、オタク役の池脇千鶴の顔が髪に隠れてほぼ出ないことも、同じくオタク役の太田莉菜が最後モデルとしてウオーキングする場面ですらモデルのキラキラ感をあんま出してないところもなかなかやったけど(太田莉菜やのに!)、最後、なんかファッションショーが成功したことをきっかけに、みんなが脱オタクしそうな勢いでめでたしめでたし感出してるのはどうよ〜とは思う。おまいらの目的は何なんや。ええやんか別にオタクのままで。オタクとして強烈なアイデンティティを持っているのならば他に自我を補完するリア充要素などいらんやろ。しかしそこがやっぱり東村アキコ原作らしさというやつなのかなー。しかし、高齢童貞として長谷川博己が出ているところには萌えしか感じない。ああ、長谷川博己……。

海月姫

海月姫

 

 

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宝塚歌劇という豪華絢爛な女子会

舞台 宝塚歌劇 神戸

生まれて始めて宝塚大劇場宝塚歌劇を観に行った。
最高やった。

宝塚のなんたるかが全く分からないので、演目選ぶのもチケットとるのもすべて一緒に行ったおともだちにおまかせ。で、観たのは月組の「グランドホテル/カルーセル輪舞曲」で、新トップスターのお披露目公演だったのだけど、ひょっとしてこれ宝塚史上最高の舞台なんじゃないの!? と、他は1本も見たことないくせに、ようわからん親バカ状態で陶酔するあたしであった。

kageki.hankyu.co.jp
いろんなパターンがあるみたいだけど、2本立て構成の場合が多いんですね。まずお芝居があって、幕間休憩をはさんで、後半はショーという。

私が見た回の前半の芝居は「グランドホテル」。1920年代のベルリンのホテルを舞台に、そこに去来する人々の一期一会の人間ドラマを描く群像劇で、もとは映画作品だと思うのだが、ブロードウェイでもミュージカルとして人気を博した演目だそう。

舞台の始まりはホテルの豪華なエントランスロビー。交換手たちが忙しく色々な客のメッセージに対応し、その間にも次々にやってくる豪奢な客たち。このあたりは映画のシーンをうまく舞台用に再構成したものっぽい。交換手、客たち、そしてホテルのフロントマン。たくさんの役者が贅沢に次々に登場し、歌い、踊る。セットの骨格をなす階段や柱などは見立てでロビーになったり客室になったりバーになったりと変幻自在で小物づかいも美しい。

とはいえ、冒頭、私はなかなか舞台に入り込めなかった。ミュージカルは好きだけど、日本語が必ずしもうまくメロディーに乗るわけでなく台詞が聞き取りにくいし、今回、予備知識ゼロでストーリーがどちらに展開するか全く分からなかったので、色んな部分から情報を読み取ろうとして疲れてしまい、挙げ句、何度かウトウトしてしまった。なにしろ宝塚は初めてで、好きになれるかどうか確信が持てないし、どこにフォーカスして楽しむべきか自分の態度も定まっていない。「ひょっとして私は楽しめないやつかもしれない」という疑念がぬぐえなかったせいもある。

はっきり「いい」と思うようになったのはお話が盛り上がって、余計な情報収集にエネルギーを費やす必要がなくなってから。宝塚なのだから当然というべきか、男役スターと娘役スターが活躍する恋物語が展開していくのだが、こうなればもう余計なことを考える必要はない。舞台にあふれる美しさだけを愛でればいいのである。そうなのだ。宝塚歌劇というのは、日常の些末事を何もかもわすれて、舞台上で疲れを知らない奇跡のように軽やかに踊ったり歌ったりするスターの輝くばかりのスターらしさを愛でる舞台なのである。

金なり愛憎なり虚栄なり老いなり性愛なり搾取なり格差なり、舞台上にはそれなりに人生と社会を折り込んだ複雑なお話が展開するのだが、きらびやかなスターの存在感のせいなのか、舞台演出のせいなのか、哲学的・内省的に振れそうになる一歩手前で観客の感情をキラキラ方面にぐいぐい引っ張ってゆき、そこにとどまって深く考えさせない。完成度の高い舞台を緻密に築いたその上に、キラキラした魔法の粉を味覚障害になる一歩手前まで大量に振りかけ、観客をただただ、トップスター珠城りょうの艶っぽい流し目や、娘役トップの愛希れいかの優美な指先にうっとりと見惚れさせるキラキラ過剰の目くらまし攻撃。こんな贅沢きわまりない陶酔システムがこの世にあったのか。私の知らないところにあったのか。宝塚にあったのか! あり続けたのか、100年間も!!

一部が終わると私は猛烈に感動していた。
しかし本当の宝塚歌劇の素晴らしさは、後半のショーに、宝塚歌劇ならではの群舞の波状攻撃たるレビューにこそあった。

いやはや本当に素晴らしかった。「カルーセル輪舞曲」。

きらきらした回転木馬のセットもメルヘンな舞台で、ピチピチしたお嬢さんたちが大量に踊る。きれいに脚を揃えて笑顔を絶やさず、すごい人数のダンサーが次々に舞台に舞い降りて、くるくるくる回って、脚をキレイに上げて踊ってくれることがこれほどまでに至福な体験とは本当に知らなかった、わたし。


かと思えば、宝塚名物の光輝く階段セットの上から、タキシード姿のイケメンたちが靴音高らかにザッザッと次から次へと降りてくる、それは尽きせぬ泉のようで、夢のように美しい彼らが、少女漫画に出てくる憧れの先輩のような感じでサッと客席を振り返り、順にニコッとしてくれる。テキーラ! もう、これが現実の光景とは信じられない夢の世界でしたよまじで。

舞台にいるのはそもそも常軌を逸した美しい人ばかりなのに、さらにそれを凌駕するスターが登場し、さらにその上をいくスターが、さらにその上のスターが……と次々に現れてくるんですからもう神経持ちませんよ。無尽蔵すぎる。わたしような初心者ですら「前の人をしのぐスターが出てきた!」となぜ分かるのかというと、宝塚にはスターが自分で後光を背負って出てくる「セルフ後光システム」があるからです。羽根。クジャクのような羽をスターは背負っている。後から登場する大物になればなるほど、羽根も大きく豪華になる。お辞儀をするとその羽根が優美に揺れる。後光が……後光が揺れている! ああ、もったいない! あんな後光を背負った人が頭を下げるんですよ。も、もうダメ!!


私は気づけば泣いていた。そして私が「もう十分元は取った!」と思ってからも、レビューは軽くその10倍ぐらい続いた。なにもかもが過剰で、私の貧困な想像力を超えていた。人数も。キラキラも。美しさも。美のインフレ。愛と幻想のシュミラークル!

終わればもう純粋な感動しか残らない。「ええものみせてもらった!」という放心と満足感。これがどれだけ価値のあるものかを考えると気が遠くなる。

どんなによくできた創造物を見たって、ああ思えばこうも思わなくてはならず、こっちを立てればあっちは立たず、言い訳しながらささやかな思いを個人的に握りしめ、なくならないように、見失わないように噛みしめて反芻するような窮屈な感動しかできないような世知辛いこの世界で、純粋な感動なんて、もうその辺じゃ普通に買えない希少品ですよ。それが宝塚にはある。あったのか。100年間も。

何がよかったって、すべてを女性が演じていることの意味がものすごく大きかった。芝居にはゲスいおっさんの役なんてのもあるんですけど、そのおっさんを演じるのも女性と思えば虚構性がいい方に作用して夢の世界にあってはならない生臭さが消えるんですよ。
主役の男爵と友情を育むしょぼくれた男性客の「オットー」を演じた美弥るりかさんもとても印象的だったのだが、これも女同士でやってるというのがよかったのだよな。珠城さんとBL感のある絡み(って書くとムダにやらしいけど、ダンスです、ダンス)シーンがあるんだけど、 それが最高やった。

またこれが将来のある若い娘さんばかりというのがね。彼女らはあんなにキラキラしているのに、ここが人生の頂点じゃないんですよ。この先がある。未来を嘱望するエネルギー。すべてが本番であると同時に人生のプレゼンテーションだという凄みがエネルギーとなって舞台からあふれ出ている。

しかし、オーケストラピットで奏でられるライブ演奏を背景にし、舞台上だけであれだけの大人数を費やした贅沢な舞台が、平日でも満員御礼でグッズ売上などもそれなりにあるとはいっても1人8000円程度のチケット代でペイできるとはとても思えない。インキュベーションとエンターテインメントの合体の仕方そのものに何か大きなマジックが隠されているのかもしれないけれど、私にはそれがよくわからない。とにかく値段以上の価値があることは間違いない。経済の論理からはみ出した過剰なエネルギーを生み出すシステムが何かしらここで稼働しているということの意味に打ち震えたよ。

何というか、この爽快感は、いい女子会の爽快感なんですよ。男社会にたまるアクや臭みを、ポジティブにはねのけるエネルギーに満ちたキラキラ。
かつて蜷川幸雄がどっかで、芝居っていうのは、何よりも市井の人、特に生活に疲れているような普通の人が、日常の合間に見て元気が出るようなものでなくてはならん、というような意味のことを書いていたのを読んだことがあるんだけど、宝塚歌劇ほどそれにふさわしい舞台はないんじゃないだろうか。

ここ宝塚もそうなのだけど、神戸と大阪を結ぶ阪神間にこういう特殊な文化が育ち根付いたことにはおそらく必然性がある。わたし、教養がなくて今はまだうまく書けないのだけど、明治維新でたまたま神戸が巨大な国際港となり、そのおかげで、ある文化が黎明し成長したまさにそのときに経済という追い風を強く受けた地域であるゆえなのだろう。阪神間は、経済とアートを奇妙に美しい形で結合させた、他地域に見られない奇妙な文化が育つ地なのである。

宝塚歌劇は単に人を寄せるだけの興行としてだけでなく、一線で活躍するプロを安定的に生み出すインキュベーションシステムである点にキモがあって、それがために日本中から若い才能が集まるし、ここが第2の故郷となるし、そのかけがえのない経験を持って外へ出てゆく人材を継続的に輩出しており、それがゆえに一線からローカルへとエネルギーを環流させる流れができている。

実は阪神間には似たようなシステムの男子版もある。それは日本一の進学校として知られる灘中だ。そりゃ東大にあんだけ卒業生を送り込んでいるから教育方法も素晴らしいのでしょうが、あの学校のキモは日本の中枢にOBを輩出しまくって経済の一線と学校を結ぶ情報環流システムが稼働していることにある。地元の商売人が出資し合って発祥した学校だが、今や完全に全国から優秀な頭脳を集める装置として完成しているってすごくない? 子どもを灘に進学させるために引っ越す親は珍しくないし、名古屋や広島あたりから新幹線通学してる子もいたりするわけで、強力な磁場を放ついわゆるひとつのパワースポットになっているのだ。選りすぐりの若き天才や変人が、人格形成にもっとも影響を受けるあれこれを神戸で経験し、各方面に散っていくことの意味は大きい。

あ、話がズレました。これはちょっと宝塚とも関連して考えてみたかったトピックなのでちょっとした覚え書き。


なんしか宝塚という強いパワースポットに触れた体験記でした。

阪神間に暮らすようになって20数年。やっと端的に人生を前向きに生きる気力を湧かせる素晴らしい宝塚歌劇のパワーに触れることができた。また必ず観に行きます。