うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

豪華絢爛な異次元ムービー『ツィゴイネルワイゼン』

監督:鈴木清順 出演:原田芳雄大谷直子藤田敏八大楠道代、真喜志きさ子、麿赤児樹木希林 脚本:田中陽造 1980年日本、144分

 

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元町映画館「追悼 鈴木清順監督 浪漫三部作」にて。
めちゃめちゃ面白かったわ!

絢爛たる清順美学! ……のなんたるかは、正直よくわからないのだけど、他人の悪夢に迷い込んだような、現実の論理が歪んだカットの連続が生み出す異次元感に心地よく酔えるのはもちろん、汚いものはちゃんと汚く、生臭いものはちゃんと生臭く、美しいものはちゃんと美しく、アホくさいことはちゃんとアホくさく……と、シーンごとにいちいちキメてくるところが律儀でグッとくる。

そういうところも含めて、割と全体的な観心地はコメディ、というところもいい。蟹とかね(笑)。

ま、それはともかく、俳優ですよ!
まずは怪優・原田芳雄。ワイルドすぎ! 士官学校のドイツ語教師という職を持つインテリでありつつ、抗いがたい野生の色気を持つ無頼漢、という役どころがもうほぼコメディなのですけど、普通にリアルに汚いのですよ、彼。臭そう。とあるシーンで「鬼」と呼ばわれていましたが、ほんとに鬼だよね。女を乱暴に扱ったり、女に割と無理矢理キスしたりするシーンがあるんだけど、あんな汚い人にそんなことされるのまじでむちゃくちゃイヤですよ! リアルに怖い。色男かどうか以前に怪異な恐ろしさがすごい。画面に出てくるたびに恐怖で震えた。あんな俳優、今いますかね。

背負い投げする原田芳雄、鰻を手づかみで食べる原田芳雄、下駄で線路を走る原田芳雄、ギャンブルで勝ちまくる原田芳雄、女を怒鳴りつける原田芳雄、かんしゃくを起こして家を出て行く原田芳雄、土に埋まる原田芳雄、子どもを脅かす原田芳雄、女をかつぐ原田芳雄、眼球をなめられる原田芳雄……。すべて恐ろしい。(いや、眼球をなめられる原田芳雄は、ちょっと我慢が足りず人間味が出てしまっているところが怖くない。可愛い)

そして、その同僚のドイツ研究者を演じる藤田敏八。わたしこの人全く知らなかったけど、この人の不思議な存在感もすごい。冒頭、旅先の原田芳雄のピンチを救うべく、この人が砂浜を駆けてくるシーンがあるのだけど、まだリアリティの側にとどまっているはずのこのシーンが既にして異様。肩幅がすごく広い堂々とした体軀は日本人離れしていて、三ツ揃えスーツをかなりきれいに着こなしているのだけど、その一方で、頭部は(額に貼り付けたような髪も含めて)のっぺりとした二次元感があり、ペラペラの紙細工のよう。どこかヨーロッパの風刺画を思わせるアンバランスな体が、砂に足をとられ、前後左右に揺れながら画面のこちら側にだんだんと近づいてくる……。このシーンだけでただならぬ悪夢感。まさに、悪夢に迷い込むために生まれた男に見えるんですよ。

ヒロイン、大谷直子もいいですねー。この方、正面からの顔は割と素朴なのだけど、横顔がとてもシャープで、横顔で苦悩する風情がとてもいい。貶められたり、崇められたり、利用されたり……という、男だけに都合のよいファムファタルという蟻地獄に、あがきながら、それはそれは美しく落ちていく。彼女は形式として1人2役なのですが、映画の観心地としては1役です。


この3人を軸に、物語は常に「男2人+女1人=3人」をひとつの単位として転がっていく。関係性が流転せざるを得ない「3人」のトライアングルが変奏、重奏されていく。男2人と芸者、男2人と片方の妻、主人と妻と来客、権力ある男2人と給仕、旅芸人の3人連れ……。人を変え、シチュエーションを変えながら、ころころころころころ……。物語としてはその転がりを愛でるに尽きる。というか、ストーリーとしての見どころは他に特にないですからね。しかし、それだけで十分飽きません。

登場人物すべてが口唇期か、というほど、常に何かを食べたり飲んだりしているのも不穏な効果を高めている。唇に刺激を感じること、腹に栄養を入れることは、不安な現実に抗うための直裁的な手段だ。その過度の頻出は、胸焼けするほど強い不安をあぶり出す。トウモロコシ、タバコ、酒、鰻、水蜜桃、すき焼き、こんにゃく、そば、通夜ぶるまい、寿司、ステーキ、紅茶、あるいは言葉だけで語られる「鱈の子」……。それらの食べ物のすべてが油絵具で描かれた静物画のように、微妙においしそうではない点にも不安が高まる。これはすべて現実ではないのではないか? 観念的な欲望にすぎないのではないか? もちろん、その一方で食が性のメタファーであることもまた疑いようがなく、それらは不足していたり、多すぎたり、うち捨てられたり、腐臭を放っていたりする。

そして最後には、生も性も幻想に過ぎなかったのではないか、ということが示唆されるのだが、この終わり方がまた、なんかコメディぽくて笑えるのよね。終わってしまえば、その過剰なワイルドさも、過剰な性欲も、過剰な色気も、過剰な不安も、盛りに盛った夢にすぎないのではないか。そうあればいいという理想に過ぎないのではないかと。これが「浪漫」とは、確かに言い得て妙だな、と。

館内に照明がつくと、私の隣の観客は下駄履きだった。
映画館の外に出ると、湿気混じりの風が強く吹き、雲が増えていた。

映画館に入る前に比べて、私の周囲の現実は確実に異化されていた。とても面白かった。

 

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--------- 6月22日追記  --------- 

この映画に現れるトライアングルの関係、見方を変えると、常に女をはさんでいなければ向き合えない男同士の愛を描いているようにも見えるな。

映画の中で骨と肉の話が何度も出てくるけど、結局骨に価値があるのは男だけで、女は肉なんだよな。死後に男2人が自分の骨を渡し合う約束をするところなんて、すごい「純愛」っぽい。

結局女は肉欲を満たす手段にすぎず、わかり合い、精神が高まる可能性があるのは男同士の関係だけ、と言ってるように見える。

実際、冒頭から、どの描写が、ってわけじゃないんだけど「女を当たり前のように道具と見做す」意識が通底しているなと思ったのだけど、男が所有物たる女をちょっとずつ交換しながら近づいていく、という物語と思うと、もうそうとしか見えない気がしてきた。

鰻をさばく樹木希林は肝を夫にいくら与えてもムダ、という挿話も、女は男の肉体をコントロールし得ないことのメタファーに見える。

 

 

 

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『未来よ こんにちは L'avenir』—狭まる未来のクローゼットに何を入れるか。

[脚本・監督:ミア・ハンセン=ラブ 出演:イザベル・ユペール、アンドレ・マルコン、ロマン・コリンカ、エディット・スコブ]


とても、よかった。

ヒロインは50代後半の高校教師、ナタリー。同じく教師の夫と、娘、息子とともにパリに暮らしている。近所には独居で高齢の母。年をとってわがままになっている母にはしばしば振り回されているものの、知的でやりがいのある仕事と落ち着いた暮らしに恵まれた毎日はおおむね幸せだった。しかし、このままずっと続くかと思われた日常が、思わぬかたちでほころび始めて……。

 

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「夫の浮気によって日常が崩壊する」なんて要約するとダサい昼ドラみたいだが、実はストーリーはそこにはほとんどフォーカスを当てていない。そして「物語」はさらさらと流れてつかみどころがないが、中身は濃い(まるで現実のように)。説明的なシーンがほとんどなく、そこにあるのは、断片的な会話と表情だけ。それなのに、なにげない行動の断片から登場人物それぞれのキャラクターが浮かび上がってくるのだから素晴らしい。

たとえば、ヒロインの母は、若い頃にモデルをしていた元・美人。この彼女の行動がふるっている。彼女はほぼ要介護状態にも関わらず、80歳を超えてもセクシーであることに存在意義を見いだすフランス女の矜持を捨てていないのだ。そして、自分が騒ぎ立てたおかげで無駄な出動を余儀なくされて辟易としている屈強な救急隊員を一瞥するや、「あら、いい男がいたわね」と値踏みし、テレビの討論番組に出演するサルコジ大統領(映画の中では現役)を「誰これ?」をのたまった挙げ句「下品な顔ね」と一蹴することを忘れない。


イザベル・ユペールがヒロイン、ナタリーのキャラクターにあまりにフィットしていることにも目を奪われる。

彼女はとても、華奢だ。そして、少し頭が大きい。いや、そういう言い方はフェアじゃないかもしれない。頭部に思考がぎっしり詰まっているせいで、彼女の重心は肉体を無視して上方にありすぎるのだろう。その発達した脳を支えるには、体があまりにほっそりしすぎている。頭を支えきれずぐらぐらと揺れる少女のような肉体。

知的で意志の強そうな表情やふるまいと、それにそぐわない華奢な体。大人と子どもが奇妙に混じり合ったような不安定なバランスを持つ彼女の体つきが、ナタリーというキャラクターに、あまりにもふさわしいのだ。一人でずんずん歩くシーンを見ていても、そっと支えてやらねばすぐに倒れてしまいそうで心配になるが、彼女の精神は支えられることを常に拒絶している。

上記のような描写も含めて、どのシーンも情報量が多く、とてもすべては拾い上げられない、つまり安易な図式化を拒んでいることもこの映画の大きな美点だ。

それは言語レベルでもそうで、たとえば、ヒロインが高校の哲学教師という設定なので、授業や会話のシーンで、ふと立ち止まりたくなる含蓄のある言葉が散りばめられているのだが、そこで思索をめぐらせてしまうと、その間に画面は移り、その後の言葉を聞き漏らしてしまう。いけないけない、と、スクリーンに意識を戻すと、ついさっき、わたしを穴に引きずり込んだいろいろな言葉や思いは蒸発してなくなっていく。もうちょっとあれもこれもじっくり考えてみたいのに。

というわけで、さまざまな見方が可能なのだが、わたしが雑にまとめることを許してもらえるとすれば、この映画は、世代の相克、というものを描いているのだな、と思った。

どの世界でも、いつの時代でも、若さは老いを飲み込んでいく。どちらが正義か、なんて関係ない。時が流れるとはそういうものだ。ここには「世代」という補助線で浮かび上がるさまざまな関係性の人間が登場するが、常に若さは老いを凌駕する。

かつて時代は、自分のためにあつらえた洋服のようにフィットしていたのに、ふと気づけば、あちらもこちらも縫い目が裂けている。さっさと古い衣を脱いで新しい衣をまとえればいいが、そうできる人は多くなく、気づいたときには決定的に「時代おくれ」になっている。

最も象徴的なのは、ナタリーと教え子ファビアンの関係だ。才気煥発な彼は、気鋭の思想家であり、仲間とともに政治的な活動にも身を投じ、来たるべき行動の時がくるまで、思想的な力をためている。彼は高校生のころ、哲学の面白さに目を見開かせてくれたナタリーを師として尊敬しているが、その一方で、新しい思想を評価しようとしないナタリーのかたくなさに落胆してもいる。

ナタリーと夫は同世代だ。しかし、彼女は夫を評して「18歳のころからまるで変わらない」「あの人に急進的な自由主義は無理よ」などと言い、彼が頭の固い保守派であることを見下していた。しかし、私生活において新しいパートナーを見つけ、古い生活を脱ぎ捨てたのは彼の方だった。(そしてそれは若い世代の「娘」からのアドバイスを受け入れた結果なのである)
ファビアンはナタリーと夫の離婚を知ったとき、「あなたたち夫婦は同志だと思っていたのに」と残念がるが、その言葉の奥には「頭の堅い夫のそばで理想の自由主義を唱えているぐらいがあなたにはお似合いだ」との皮肉な含意が全くなかったわけではないだろう。

ナタリーは、自身の本を出版している出版社の若いスタッフからも「あなたの本は時代遅れで地味で売れないから、せめてデザインをおしゃれにすべき」と遠回しに苦言を呈されるが、彼女は「本をキャンディのように包むつもりはない」と、その提案を拒絶する。そんなナタリーを見送るスタッフの表情は、目を開き、口角を下げる例の(「だからおばさんは困るんだよね」とでもいわんばかりの「やれやれ」という)表情を浮かべる。おっさん上司の話相手を長々とさせられた後の若いOLが浮かべる、おなじみのあの表情を。

一方、高齢の母と対比すればナタリーは若い。そして、いつまでも過去の習慣を改めようとしない母に苛立つ。しかし他ならぬその母こそが自分に高等教育をつけてくれたこと(娘に「みっともない」「恥ずかしい」と疎まれるようになるリスクを承知しながら)が、彼女の今の暮らしの礎になっていることに対して心から感謝してもいるのだ。それでも彼女は母に対する苛立ちを抑えることはできない。それはファビアンの自分自身に対するアンビバレンツな感情ときれいに重なる。

現在は常に、「わたし」を過去に押しやりながら、未来をどんどん侵食してゆく。「わたし」の居場所はどんどん狭まっていく。

この映画を撮ったのが、30代の気鋭の女性監督・ミア・ハンセン=ラブであり、ヒロインを演じる大女優に「40歳を超えた女は生ゴミよ」なんて言わしめることを考えれば、世代の相克というテーマは、メタなレベルでもしっかり仕掛けられているといえる。

かといって、映画を全体として見て、老いを一方的に価値のないものとして断罪しているわけでは決してない。彼女は、母の形見の黒猫を捨て、教え子から精神的に離れ、本棚にぎっしりとコレクションした本を半分失った。家の中にはぽっかりと新しいものを受け入れるスペースを得て、映画は幕を閉じる。そこには彼女の新しい生活の予感、新しい思想の予感がある。それが未来というものだ。


映画のあちこちに散りばめられた若い世代のフレッシュな意見、新しい時代の空気を、どのように自分の中に取り込んでいくかという問いは、観客であるわたしにも強く投げかけられている、と感じた。

その問いかけは、わたしをも鋭く刺す。とはいえ、映画全体として見れば、細部がとても丁寧につくられているので、見ていて本当に心地よく、説教臭さとは無縁だ。

そこここで登場する哲学の断片、その含蓄。(欲望をなくせば幸せもないって、本当かしらね)
とても演技には見えない些細で現実味にあふれた仕草。(たとえば、ナタリーが母親が飼っていた太った黒猫、パンドラをカゴに入れて持ち上げようとするとき「あ、重い」と、小さくよろける仕草など。とても演技には見えない)


ほんとうに、とってもよかった。
何度も見返したい秀作。

 

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まちに埋め込まれた写真たち [KYOTOGRAPHIE 2017]

写真展を見ることに対して苦手意識がある。

一応広告界隈で仕事してるし、広告表現には写真が欠かせないので、何かを説明するための写真、イメージアップのための写真、消費意欲を湧かせるための写真、という目的のある写真にはなじみがあるのだけど、表現としての写真、アートとしての写真、というものの文脈がわたしにはまるで読めないからだ。

写真を撮るのは好きなのだけど、わたしにとってそれは「きれい」「すてき」と思った瞬間を形にしたい、という衝動のはけ口になるからという以上の動機はない。その衝動をうまくはき出すためにも「見たもの」と「写ったもの」のギャップは少ない方がいいと思うから、ある程度方法論は知っておきたいと思うのだけど、表現への情熱がないからか、まるで上達しない。

とはいえ、下手は下手なりに撮ることに関しては自分の衝動があるから分かりやすいけれど、他人の撮った写真を見ることに対してどういう態度をとればいいのかが分からない。写真を見て「きれい」「すてき」と思うことは多いけど、そのようなクリーンな好意を得るために積極的に写真を見たいか、ましてわざわざどこかに出向いてまで見たいか、といわれると、正直、あまりそうとは思わない。

写真サークルにも入っているので、それなりに写真を見る機会は増えたけど、やっぱり写真鑑賞に対する苦手意識は消えない。ただ、知人が撮った写真を「知人が撮った写真」という文脈の中で見る場合は、もう少し楽に見ることができる。それも結局、私が写真をフラットに見る視点を獲得していないからだと思う。

そんな素人鑑賞者につき、京都国際映画際「KYOTOGRAPHIE」のことも知らなくて、今年、写真サークルの方に誘ってもらって初めて見に行った。京都市街地に点在する複数の会場でさまざまな写真の展覧会を同時開催する国際写真祭である、という基本的なフレームも、今回行って初めて知った次第。

そもそも、写真を見ることより京都のまちを歩くことに主眼を置いて出かけたのだけれど、実際に見てみると思ってたよりずっと楽しめた。なにがよかったかというと、会場がいわゆる写真ギャラリーではない「まちなかのあちこち」に設定されていることだ。

公式マップには以下のように説明されている。

世界で活躍する写真家の貴重な作品や秀逸な写真コレクションに、寺院や通常非公開の歴史的建造物・モダンな近現代建築という特別な空間で出会えます。(中略)第5回となる2017年は、数十名のアーティストが参加し、16会場で展示を行います。


「京都」という文脈に、あらじめ写真を埋め込んでくれていることで、どの写真展でも、写真がただ写真作品としてではなく、ある種のインスタレーションとしてそこにある。私のような「視点なき鑑賞者」にも、十分な文脈を与え、写真を見る視点の持ち方のヒントを与えてくれる親切設計なのだ。

カメラをぶら下げた写真愛好家が多数訪れるので、ほとんどの会場で自由な写真撮影が許されているのも楽しい。結局、後日もう一度出かけ、以下の展覧会を見ることができた。建仁寺荒木経惟を見たかったのだけど、時間配分を間違えて閉館ギリギリに行ったら行列ができていたため、受付で断られてしまった。無念。

 

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★虎屋 京都ギャラリー/フランス国立ギメ東洋美術館・写真コレクション
 「とらや」茶寮のとなりの素敵なギャラリー。
 外国人が撮影した明治期の芸者、花魁、婚礼風景など。
 手彩色のファンシーさ、奇妙な非日常性。

★元・新風館
 インフォメーションセンターになっていて、複数の無料展覧会あり。

京都文化博物館別館1階/ラファエル・ダラボルタ ショーヴェ洞窟
 すごい技術を駆使して、3万6千年前(!!!)の壁画が残るフランスの洞窟を360度撮影したとか!! こういうのは誰かが撮って見せてくれないと一生見れないものだから、素直に写真が持つ力として感動せざるを得ないよねえ。でっか〜いモニターに映し出される高精細画像のスライドショーが圧巻。座ってぼーっと眺めるのがすごく楽しかった。会場となっている建物は旧日銀京都支店。木の細工が美しい天井、鍾乳洞のごとく垂れ下がるシャンデリア、高い天井、凝った意匠……。いわば洞窟 in 洞窟。作品と会場のシンクロ具合が素晴らしい。

京都文化博物館別館2階/ルネ・グローブリ The Eye of Love
 写真家が、新婚旅行で妻を美しく撮影した愛あふれる写真の数々。1950年代のパリ。映画『リリーのすべて』を思い出した。
 しかし、奥さんがメイクしてる鏡に、背後でカメラを構える写真家が写っている写真を見ると、「ほんま、カメラ男子ってヤツはいつでもどこでも写真のことばっか考えやがって」と思ってしまう(笑)。写真の中の奥さん、とっても美しいけれど、奥さんはどう思ってたのかな?

★誉田屋源兵衛 竹院の間/ロバート メイプルソープ写真展
 エロ系の人物写真、エロモチーフ写真豊富。ここは撮影禁止。
 会場は「帯匠」であります。2階に展示されていた帯が美しくてうっとり。

★誉田屋源兵衛 黒蔵/イザベル・ムニョス Family Album/Love and Ecstasy
 帯屋さんの蔵での展示。2部構成で、前者はゴリラやチンパンジーの家族がモチーフ。霊長類の写真は心ざわつきますね。表情豊か。後者は身体改造などがモチーフとした痛〜い写真いろいろ。後者を展覧していた蔵の最上階のドーム状の空間が素敵で、ここから見下ろす京町家の風景に萌えた。普段は何に使っている空間なのか。周囲に見下ろす坪庭、重なる瓦屋根、たまらん感じ。

★無名舎/ヤン・カレン 光と闇のはざまに
 京都に残った職人文化の「道具」や「風景」の端正なるポートレート。手漉きの和紙にプリントされた静謐な作品が多数展示されいた。写真作品個々がどうのこうのというより、京都の町家空間との調和が素晴らしく、空間と時間込みの展示。刻々と移り変わる光。その揺らぎの美しさ。

★ASPHODEL/TOILETPAPER
 極彩色とポップな意匠に彩られた、インスタ映えしまくりの写真スタジオ!!って感じ。会場となったギャラリー1棟まるごと、イタリアのアート雑誌「TOILETPAPER」流にデコレートされている。というわけで、おしゃれぴーぽーで大賑わい。派手なモチーフあふれる空間で、皆さん写真撮りまくり。わたしは残念ながらおしゃれぴーぽーではないので、あまりなじめなかったけど、女子グループで行って写真撮り合いっこしたら楽しかったんちゃうかなあ。

 

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ファッションをアートに変える信念と執念『メットガラ ドレスをまとった美術館』

[監督アンドリュー・ロッシ 出演:アナ・ウィンター、ウォン・カーウァイ、アンドリュー・ボルトン ほかセレブ多数 2016年アメリカ 91分]

 

フラッシュの閃光とシャッター音の洪水のなか、豪華なドレスをまとってレッドカーペットに続々と登場するセレブたち……。メトロポリタン美術館(メット)のファッション部門の特別展のオープニングパーティー「メットガラ」の超きらびやかな光景とともに映画は幕を開ける。

 

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やがて時間がさかのぼり、カメラは、メットの特別展『鏡の中の中国』の企画から開幕までのいきさつを追う。この映画は、キラッキラのファッション・ドキュメンタリーであると同時に、さまざまな利害を調整しながらプロジェクトを動かし、大規模な企画を着地させるまでのお仕事ドキュメンタリーでもあるのである。


メトロポリタン美術館の地下には圧倒的な物量を誇る服飾部門のアーカイブがある。映画の中心人物は、その専門キュレーターであり本特別展の責任者であるアンドリュー・ボルトン(イケメン!)。そして、もう一人のキーパーソンが、同美術館服飾部門の顧問でありヴォーグの名物編集長であるアナ・ウインター。ここに、さまざまなデザイナーやクリエイターが絡みながら、企画が着々と形になっていく様子が描かれる。

ファッション・ドキュメンタリーの楽しみは、なんといっても画面にあふれる華やかな美しさをめいっぱい浴び、高揚感と前向きな気分を得られること。本作でも十分それを満喫させてもらったたのだけど、この映画は「プロジェクトもの」として見てもとても面白い。特に『プラダを着た悪魔』によって「冷血漢の鬼編集長」のイメージがぺったりと張りついたアナ・ウインターの、超人、変人として突出した部分以外の「ふつうの〝仕事できる人〟の顔」が見えたことがしみじみと胸に迫った。

「ファッションはアートか否か」という問いに対してはさまざまな答えがあり得るし、まずもって「アート/ファッションをどう定義するか」という難問があり、わたしなどがそう簡単に語ることはできませんけども、少なくとも、この映画の核人物であるアンドリューさんとアナさんは、両者に何らかの定義をした上で「ファッションは実用物を超えたアートとして次代に受け継がれるべきものである」という信念を持っている。しかし、実際のところ、まだファッションは十分に公共的な意味を持ちうるアートとして社会に認知されているとはいえず、より普遍的な意義を高めるためには、ファッションの側から「アートとして魅せる手法」の洗練と、「アートとして扱うための資金」の調達という両面からのアプローチが必要だ。その最前線で、前者を担うのがアンドリュー、後者を担うのがアナなのである。

ガラ・パーティーは企画展の「にぎやかし」などではなく、ファッションをアートとして存続させるために欠かせない資金を集めるためのビジネスであり、企画展と対等な両輪をなすものだ。その資金源となるのが、日ごろファッションと共存共栄しているセレブたち。チケット代は1人200万円だか300万円だかの高額で、総額約15億円だかがこの一夜で集まるという。


テンポラリーなファッションから、パーマネントなアートへ。エネルギーをダイナミックに環流させ、消費から保存へと価値の変換を促す最前線がここメットガラ、というわけだ。

パーティーに誰を呼ぶか、そして、呼ばれたすべての客をどう満足させ、対外的にどうプロモートするかーー。大胆さと繊細さが同時に要求される一連のマネジメントの完遂がアナ・ウインターのミッション。招待客すべての席次を何度も何度も検討し直し、細部をしつこくシミュレーションし、部下に細かく指示を出す。その緻密さと執念深さに彼女の執務能力の本質を見る。その上で自分自身の価値を冷静に見きわめ、徹底的に自己プロデュースする強さ!

彼女はもう60歳を越えているのだけど、いったい誰が後継するのでしょうね。

ラストではヴォーグのエディトリアルデザイナーがMacの画面を見ながら、「リアーナ最高! これで表紙は決まりだ!」とか「このざくろの写真いかしてる! アナも絶対気に入るぜ!」とか叫びながらめちゃくちゃハイテンションで誌面をレイアウトして、鬼編集長のアナ・ウインターにプレゼンしてほめられてヒャッハー!ってなるシーンがあるんだけど、このエンディングにも仕事愛がにじんでいてよかった。あんな陽気なエディトリアルデザイナー見たことないけどな。


あと、これって『ダイアナ・ヴリーランド 伝説のファッショニスタ』の続編みたいだなーと思って、個人的にはそれが一番胸アツだった。ヴリーランドはかつてヴォーグの編集長を務め、メットの服飾部門を創始した人?だったと思うので、アンドリューとアナはダイアナの正統なる後継者なんですよね、実際。
件の映画は、彼女が活躍した時代のリアルタイムの映像がほとんど残っていないせいで、ドキュメンタリーとはいえ、彼女が編集したファッション誌の誌面、周辺の人々へのインタビュー、古い写真などをつなぎ合わせるしかなく、ともすれば退屈な資料映画になってしまっても仕方ないぐらいの材料不足にもかかわらず「ファッションで自由になれ!」という熱いメッセージが全編にあふれていて、本当によかった。ダイアナはアナのような端正な美人じゃなくて、かなり個性的なお顔なのだけど、その彼女の顔が、映画を見終わるころには、この世のものとは思えぬぐらい美しく見えてくるのよ。
ああ、もう一回見よ。

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あと、ラスト近くに、ストリートフォトグラファーのビル・カニンガムさんもちょっとだけ登場してましたね。彼を主役に据えた『ビルカニンガム&ニューヨーク』も、それはそれはキュートなファッション・ドキュメンタリーだった。ビルは2016年に亡くなっているから、2015年と思しきこの登場シーンの姿は本当に晩年ですね。かなりお年を召されたおじいちゃんなのに、表情はまるで少年のよう。いつまでもこんなキラキラした視線が世界のファッションを包んでいますように。

 

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2007年から遠く離れて

2007年はカラオケの年だった。


歌い、踊り、囃し、激しくタンバリンを叩きすぎたせいで手のひらにタコを作りながら、わたしは新曲をせっせと仕入れ、聴き、覚え、そして歌った。

2007年、ひとり娘は2歳だった。育休明けの業務再開から1年以上が経ち、仕事も軌道に乗り忙しかった。よい保育園に恵まれていたし、泊まりの出張が入ると車で2時間ほどの距離にある実家の父母が1週間や10日は快く娘を預かってくれたから、気楽に出張に出かけることもできた。


中でも、気心の知れた女性ばかりのチームで担当していたカタログ制作の仕事では、数か月おきに2〜3泊の出張が入り、仕事とその後の飲み会、そして深夜までのカラオケまでがワンセットで年中行事となった。仕事とはいえ楽しかった。基本的に同じメンツなのでマンネリ防止のためにも新曲が必要だ。出張のたびに1〜2曲は新たなレパートリーを仕入れるミッションを自らに課した。というわけで、今に至るまでわたしのカラオケのレパートリー曲は、2006〜2008年発売の曲に固まっている。

2007年は、出産後の緩んだ体を引き締めるためにランニングをよたよたと始めた年でもあった。
iPodにカラオケで歌いたい曲をたくさん仕込んで、朝に、夜に、走りながら聴いた。
YUIの「CHE.R.RY」(2007年)を聴きながら、朝日を浴びる桜並木のトラックをぐるぐる回ったし、APOGEEの「夜間飛行」(2006年)を流せば、住宅地を縫う暗い夜道が滑走路になった。ボニー・ピンクの「A perfect sky」(2006年)とともに焦げつく真夏の道を駆け、長雨の合間に「Anything For You」(2007年)とともに水たまりを跳んだ。

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そして、2007年といえば、なんといっても宇多田ヒカルだ。「Keep Tryin'」(2006年)で明るく高らかに新時代の幕開けを告げた彼女は、傑作アルバム「ULTRA BLUE」を発表した後も「Beautiful World/Kiss & Cry」〜「Flavor of Life」〜「HEART STATION/Stay Gold」まで一気に突っ走った。1曲ごとに「宇多田ヒカルらしさ」を塗り替えた豊穣の2007年。新曲が出るたびに興奮した。いやほんとうに最高だったね。

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サカナクションを初めて聴いたのはFM802ヘビーローテーションになっていた「三日月サンセット」(2007年)だ。同じくFM802で「キンミライ」を聴いて知ったナイス橋本は、2ndアルバムに入っている「i love you」(2007年)が好きだった。この曲には、遠距離恋愛中の男がメールを「早撃ち」する描写があるが、当時はわたしのケータイもNECの二つ折れタイプで、カラオケでこの歌をうたうときは、両手の親指でキーを素早く叩くジェスチャーを加えたものである。そうそう、当時わたしはiPodにわざわざラジオチューナーをつけてFMを聴いていたんだよね。

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色々な愛があった。アヴリルラヴィーンが2007年に「Girlfriend」で「あんなショボイ彼女よりあたしの方がいい女やろ?」と恋人のいる男に明るく迫ったかと思えば、2008年にはaikoが「二人」で、愛され系の女をただ羨むだけで自分からは行動を起こそうとしない受け身な女の思いを切なく歌い上げた。横恋慕日米対決、どっちもいいね! 

 

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リップスライムの歌にはモテる男ならではの世界観がこれでもかとちりばめられていて、歌うたびに眩しすぎて目を細めたが、中でもリップスライム×くるりの「ラヴぃ」(2006年)の「一緒に歯ぁ磨こうよ、ねぇ」という最強の口説き文句にはしびれた。一緒に歯ぁ磨こうよ……。いやはや完璧じゃないすか、このフレーズ。それでいて「ま、明日になったら気が変わってるかもしんないけど」てな感じで全体的にテンションが低いツンデレぶりもたまらん。まあ「ただしイケメンに限る」感はあるけどな。いい男はどんどんリップスライムを歌うべき。

 

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おしゃれシンガー木村カエラの「Yellow」(2008年)、野太い声のsuperflyの「マニフェスト」(2008年)、椎名林檎率いる東京事変の「キラーチューン」(2007年)など、絶叫系の女ボーカルの歌は爽快感があり、相対性理論「おはようオーパーツ」(2008年)、HALCALI「It's PARTY TIME!」(2007年)、MEG「甘い贅沢」(2007年)などのポップなガールズチューンも楽しくて好きだった。

 

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2008年にはカタログの仕事が終わり、チームで出張する機会が減った。わたしの仕事も全体的に堅めのものにシフトして単独行動が増え、いきおいカラオケにも行かなくなった。

わたしのケータイはiPhoneになり、ラジオはradikoになり、神戸のオークラで世にも華やかな披露宴を催した藤原紀香陣内智則と別れて梨園の妻になり、2歳だった娘は小学校6年生になった。

今使っているMacBookAirにもiMacにもCDドライブがついていないので、面倒臭くてCDは一切買わなくなり、Applemusicとsoundcloudでばかり音楽を聴いている。

しかしたまにカラオケに行けば、わたしのレパートリーは相変わらず2007年付近をうろうろと所在なくさまよう。自分の第2ステージが始まったような、なんとなくこの先もこのままうまくいくような、自分の中にある「何か」は、今後も増え続け、成長し続けることを根拠なく事実と見做していた2007年から遠く離れた今もまだ。

クズ男への怒りと、凡庸な女の寂寥『百円の恋』

[監督:武正晴、脚本:足立紳  出演:安藤サクラ 新井浩文、稲川実代子、早織、宇野祥平坂田聡、沖田裕樹、吉村界人、松浦慎一郎、伊藤洋三郎、重松収、根岸季衣 2014年日本]

アマゾンプライムで空き時間にちまちまとぶつ切れで『百円の恋』を見た。
安藤サクラのダウナー女ぶりは確かにすごかった。見てるこっちの気分が沈む下流感。前半戦はダウナー女のひたすらダウナーな毎日が描かれるが、後半は日々の鬱憤をひたすらボクシングにぶつけて一気に疾走感が増す。32歳のど素人女がプロボクサーをめざす先に何が見えるのか……。

百円の恋

百円の恋

 

 

半分まで見たところではらわた煮えくりかえった。どうしようもないクソ男にヒロインがレイプ被害を受ける様子が描かれており、その描写が実に実にリアルだったからだ。
犯人は、現実のレイプ犯罪でも最も頻度が高いであろう知人の男だ。またその男の様子が、明らかな暴力を振るっているにも関わらず、自分を全く犯罪者と考えることもなくニヤニヤ笑い、それが「ちょっとしたコミュニケーション」だとでもいわんばかりの軽い態度で、どこまでも罪の意識などなく、あまつさえ「おまえもほんとは望んでるだろ」「迫ってもらえて光栄だろ」などと信じ込んでいる。あまりにもゲスで、しかしながらあまりにも世界にありふれているあの屈辱的な犯罪を、そりゃもうリアルに描いてはって感心したわ。レイプシーンを描く本も映画も多いけど、その日常性と本質的なゲスさをここまでリアルに描いているのは珍しいのではないか。
観客としてはなんとかしてその場を逃れてほしいと願うばかりだが、逃げ道はたやすく暴力で封じられる。あんなゲスは死ねばいい。しかしあんなゲスはいまこの瞬間もこの世にいっぱいあふれていて、あまりにもそこらへんにいて、全然珍しくないのだ。一人残らず死ねばいい。

本当にあのゲス男が許せねえ。激しい怒りが湧く。怒りとは、理不尽を許容できないときに湧く感情だ。怒りは2次感情だと? ちゃんと自己実現していたら怒りなど感じないってか? 怒りを持つのは大人げないとでも? 理不尽がそこにあったら、自分の心の中に不安がたまってようがたまってなかろうが、怒るのは当然だ。それを、怒った方に原因があるだと? そんなわけあるか。理不尽な目に遭えば、理不尽な人間を目の前にすれば誰だって怒る。そんなこととやかくいわれる筋合いねえっつの。と、最近のネット記事などを思い出してさらに怒りが増幅される。

まあ後半でもあれこれあって、ヒロインはボクシングに目覚める。
理不尽かつ屈辱的な目に遭った人間が「強くなりたい」と思うのは当然だ。
スピーディーな編集で、彼女の体がみるみるシャープに研ぎ澄まされていく様子は本当に爽快だ。自分の体を自分の思うように操れること以上の快楽はこの世にない。わたしも強くなりたい。一緒にシャドーボクシングをしていたら腕が痛くなった。
そして彼女は試合に挑む。勝利を自分で勝ち取るために!!がんばれ!!! 勝てっッ!!!!

面白い映画だった。いい映画だったと思う。しかし、ラストにはがっかりした。
現実は甘くないけれど、強くなった自分は裏切らない。
だからこそ、その手をふりほどく力が今のあんたにはあるやろうと。程度の差はあれ、かつて惚れたその男もクソ男やで、と。
泣くな、勝つまで孤独を生きていけ、と、遠ざかる彼女の背中に向かって、リングの外から、否、画面の外から届かない声をかけることをやめられない。自分が大して実践できていないことを映画の登場人物に求めるのもおかしな話やけどな……。一抹の寂寥感。しかし、はやいとこあんな男捨てろよ、としつこく思いながらエンドロールを見つめるわたしであった。

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法と現実が交差するジャンクション — 初めての裁判傍聴記

裁判所にまつわる原稿を1本書かないといけないことになり、先日初めて裁判を傍聴した。

1件目は覚せい剤取締法違反で、2件目は常習累犯窃盗であった。4人座ればいっぱいになるベンチ式腰掛けが6脚。司法修習生なのか学生なのか、スーツを堅苦しく着た若い男女の一群、ツギだらけの布バッグを提げたくたびれたおじいさん、メモを持った記者風の男性などで傍聴席はほぼ満席。わたしの隣に座ったのは、あからさまに私のことをジロジロと見てくる年配のご婦人だったのだが、後から考えればこの人は被告人の身内だったのかもしれない。

検察官は2人いて、どちらも男性。一人はやたらと腰が低い感じで、もう一人は渋面をつくったまま微動だにしない。整った顔立ちの青年だったが、あのまま眉間にシワが定着してしまいそうだ。書記官は女性。裁判官は50代と思しき柔和な男性だった。この2人は黒いローブをまとっている。

一件目は覚せい剤取締法違反(使用、所持)の女性。30代か。「BABYDOLL」のカジュアルジャケット、スウェットパンツにつっかけサンダル、乱れた感じの茶髪のロングヘア。完全すっぴんのようだが拘留中は化粧はできないのだろうか、しないのだろうか。刑務官2人に付き添われ、手錠で拘束された状態で法廷に入ってくる姿をリアルで見ると、やはりギョッとした。罪を犯し、公的に拘束されている人間の姿ってやっぱり普通には見かけないから。

弁護人は女性。もしこの法廷をドラマ化するなら松たか子あたりがハマリ役だろう。派手ではないけどさっぱりときれいなお顔立ちで、見るからに賢そう。グレーのスカートのスーツの下は白いプルオーバー型のブラウス。堅い印象に似合わぬ巨乳だ。化粧を濃くして服を変えたらかなりセクシーになりそうだ。

裁判長が入ってきて開廷を宣言。傍聴人も立ち上がって一礼する。裁判長が促し、被告人の拘束が解かれる。

この法廷は「判決」につき予定時間は5分。本来ならば判決文を読み上げるだけなのだろうが、この日は検察から追加で証拠が出されたので少し時間が延びた。検察官の声がもごもごしていてく聞きとれないが、前回出した証拠の修正?か何かだそうだ。とはいえ判決に影響するようなものではないらしく、裁判官が少し証拠を検証しただけで判決文の発表に移った。

被告は証言台の前に立つ。ふと見ると被告人は涙ぐんでいるではないか。
本来ならば判事がそのまま判決文を読み上げるのだろうが、この日は新たな証拠調べがあった関係で、被告人に向けて「最後に言いたいことはないか? 前回話したことに間違いはないか」という問いかけがなされた。そして、前回の法廷で彼女が語ったとされる言葉が読み上げられた。「第二の人生をやり直す覚悟であり、子どももいることから、寛大な判決をお願いします」云々。
彼女には子どもがいるのだ。今どこでどうしているのだろう。

判決は実刑で懲役2年。執行猶予中、保護観察下の再犯だったのだ。「もう覚醒剤とは手を切ってほしいと思います」と、被告人の目を見ながらゆっくり語る裁判官に「はい」と答える被告人。

狭い法廷だ。うっかりしていると被告人と目が合う。席がなくて行きがかり上、一番前の席に座ってしまった。「見世物でも楽しんでる気分か」と言われているようで身がすくむ。

2人目の被告人は累犯窃盗。自転車のカゴから人のバッグを、2度盗んだらしい。みすぼらしく禿げていて人相が悪く滑舌の悪い、上下作業着のご老人である。こちらの判決も懲役2年。拘留されていた60日は刑期に算入されるらしい。この件の弁護人は、髪が四方八方に飛び散らかっている若い男性で、せいぜい30歳ぐらいに見えた。

法廷は厳粛であった。すべての手順が厳格に守られて粛々と進行していく。被告人のくたびれたスウェットパンツやみすぼらしい作業着はその重厚感と破調をきたす。しかし裁かれるためにこの場に立つ人たちは、圧倒的多数が彼彼女のように場と破調をきたす人たちなのだ。そして、彼や彼女に向かって、優しく思いやりに満ちた表情を浮かべ「二度と間違いを起こさないで下さい」と語りかけるのは、高等教育を受け、司法試験の難関をくぐってきたエリートである。重厚な空気に包まれた非対称。静かな違和感がぽっかりと浮かぶ。

本当に第二の人生とやらはあるのだろうか。自分が被告人としてあの場に立てば何が見えるのだろうか。ここに至るまでに何があり、この先に何があるのか。法廷は静かで重厚な異次元のジャンクションであった。また何度か行くつもり。

 

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