うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

減量中間報告。これからもがんばりたい。

去年の7月に、メタボ健診で腹囲を測ってくれた人が、二度も三度も測り直した上、「え、、前回よりめちゃくちゃ増えてますよ……。何かありましたか?」と言われてから、危機感を持って始めた減量。約10か月である程度の成果が出た。

 

体重はマイナス3.5kgでBMIは21少々から約20に。体脂肪率は測る時間によって揺れがあるけど、だいたい2〜3%は減ったかな。いずれも数字にすると微々たる感じだけど体型は結構変わった実感があって、主にお腹が凹んだし、ウエストも太ももも2cm減った。本当はBMIは19まで持っていきたかったのだけど、諸々のバランスを考えるともうそこまで下げなくていいかと思うようになった。20代で一番痩せてたときより体重は2.5kg重いけど、メリハリは今の方があるので、あとは体脂肪率をもう少し下げることと、腹まわりをもう少し締めて硬くできれば……。

 

減量もうまくいかないときは悪のスパイラルみたいな感じで何をやってもうまくいかないけど、うまくいきだすといろいろとうまく回るようになってくる。

 

7月、健診のすぐあとに活動量計のfitbitを購入して、運動量を可視化したのだが、思ったより変化がなかった。私の場合、ちゃんと減量サイクルに入れたのは去年の秋だ。11月に練習不足のまま大阪マラソンを走ってかなり不本意な結果だったことから、2月の北九州マラソンで自己ベストを出すために夫に練習メニューを組んでもらい、3か月間、計画的にランのトレーニングに取り組んだことが好循環を回すきっかけになったのだ。体重を減らすには運動よりも断然食事の影響が大きいのだが、体を動かすことによる食事改善効果は無視できないほど大きい。

 

日常的に体を動かしていると、じっとしている時に襲ってくるような暴力的な空腹感は感じにくいし、お腹が減った時も、まず何かを食べる代わりに腕立て伏せのような、負荷が高いけどすぐにできる筋トレをすると決めておくと、その瞬間、確実に食欲が減る。筋肉刺激は、特に炭水化物への希求を減らす効果があるような気がする。

 

運動しやすい状態に体をキープしようと思えば、普段の食事も腹八分目が当たり前になり、体が軽いと運動へのハードルが下がる。食事に着目しすぎると食事にばかり意識が向きすぎて、1日中食事のことを考えるようにになってストレスがたまるので、運動をトリガーにしてライフスタイル全体をヘルシーに持っていくことはとても大切だと思った。

 

もちろん、長距離ランのような持久系の運動をするためには炭水化物はエネルギーとしてとても重要なのだけど、今回は短時間でタイムを上げるために夫が主にスピード練習主体のメニューを組んだのもよかったのだと思う。短距離を速く走ろうと思うと体を軽くしたいので、炭水化物を無意識に避けるようになる。炭水化物を食べ過ぎると、水分を抱え込んでしまって確実に体が重くなるからだ。運動後にはプロテインも飲むようになった。夫には「プロテインは太るで」と言われているのだけど、プロテインは腹持ちもいいし、私の場合はその分だけ炭水化物依存度が減るので、トータルな食事量も減ったと思う。それに男が思うほど、女の体に簡単に筋肉などつかない。

 

日常的な筋肉痛は体への意識を高めるし、ランニングは確実に脚の筋肉を増やすので、普段から体を支えやすくなり、ハイヒールでも長時間歩けるようになる。異論はあるだろうが、私はハイヒールで歩くと体幹を意識しやすく姿勢がよくなるので(実際に脚も長く見えるし)、ここ半年でハイヒールを履く頻度がめちゃくちゃ増えた。ヒップアップするし、姿勢を正すだけで、一時的にせよ腹まわりはサイズが減るので、ローヒールの時よりタイトな服が着られるようになり、タイトな服を着るとさらに腹とウエストが意識が向くので姿勢がよくなる。

 

fitbitでは、睡眠と心拍の推移、運動量だけをチェックして、食事は入力していない。面倒だから。

体重は「減ったときだけ」記録する。その方が長期的スパンの減量傾向を把握しやすいし、気分もいいからだ。

 

ちなみにだけど、2月の北九州マラソンは一応自己ベストが出た。4時間17分29秒。遅いけど、嬉しい。フルマラソンの記録は、体重を1kg減らすごとに3分縮むと言われているので、それだけでも秋はもう少しいいタイムを狙えるのではないかと少し期待している。最終的にはやっぱりサブ4はめざしたいしな。40代のうちに。

 

あとはこれをちゃんと維持できるかどうかだけど、心配なのは、ここ1年ぐらいでランニングの後に左膝が痛くなりやすいこと。走れなくなると好循環は途端になくなってしまう。脚を壊さない程度にがんばりたいし、故障したときは別のライフスタイルを構築するだけの知恵も必要だな、とも思っている。

 

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あたしの買ったfitbit。ストレスが増えると安静時心拍が如実に高くなるのが結構面白い。これのおかげで歩数は1日平均1万歩は確実にクリアするようになったような気がする。

 

『シェイプ・オブ・ウォーター』はマイケル・シャノンに尽きる

監督・脚本:ギレルモ・デル・トロ出演:サリー・ホーキンスマイケル・シャノンリチャード・ジェンキンスダグ・ジョーンズ、マイケル・スターバーグ、オクタヴィア・スペンサー2017年アメリカ 124分

 

 『シェイプ・オブ・ウォーター』を初日に見た。  

ネタバレある感じ。

 

www.foxmovies-jp.com 

海の中か、はたまた夢の中か……。アイマスクをつけた女性がゆらゆらと揺れながら眠る童話のような冒頭シーンは幻想的で大変美しい。しかし、鑑賞後の私の感想は「これは映像美を極めたコメディやな」で、見ている間もほぼ吉本新喜劇を見ている感覚だったのだけど、あとで感想をあれこれ検索したら、ほぼ「美しいファンタジー」「すごくよい」と絶賛している声が多く、うう、私、なにかファンタジーを見るための重大なリテラシーを欠損しているのかしらとすごく不安になって凹んだ。

いや、本当に映像はめちゃくちゃきれいなんですけどね。

 

しかし、あの、マイケル・シャノン演じるアメリカン・マッチョの軍人、ストリックランドを見よ。彼は終始目がイッちゃったヤバイ人で、仕事中に電流か何かが流れる棍棒を持っていて、気に入らない奴には躊躇なくリンチをかます。背は190cm、妻はブロンド、車はキャデラック、セックスは正常位。トイレでペニスに手を添えることなく小便できるという特技を持つ無敵の男だ。そしてトイレの後は手を洗わない! 男・た・る・も・の・小・便・ご・と・き・で・手・な・ど・洗・わ・な・い! というこの心意気。彼が魚人をお気に入りの棍棒でいたぶる場面で「ドリルこんのかーい、くんのかい、こんのかーい、毛細血管いっぱい集まってるとこ、わきー」という絶叫ギャグが脳裏をよぎらなかった関西人はいないだろう。いないよね? いる? 完全にコメディやん。

 

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ヒロイン、イライザ(サリー・ホーキンス)の首には古い傷痕があり、それ故かどうかは定かでないものの、彼女は声を出すことができない。朝決まった時間に起き、ゆったりと浴槽に身を横たえて自慰を楽しみ、卵をゆで、サンドイッチを隣人に届け、バスに乗り、とある政府系の研究所で掃除婦として勤勉に働く。判で押したようなルーティーンの毎日を静かに繰り返す。

彼女は声を出すことこそできないが、お隣に暮らすおじさま画家の友人、ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)や、超能力者のようにイライザの内面を即座に察してくれる心優しい同僚、ゼルダオクタヴィア・スペンサー)とは、目線や身振り、そして手話で豊かなコミュニケーションを交わすことができる。

そんな彼女の日常に変化が訪れるのは、奇妙な生き物が彼女の職場である研究所に持ち込まれたことがきっかけだった。ソ連との国家間競争に勝つための重要な要素であるらしきその生物をイライザは垣間見て、心惹かれてしまい……。

 

……と、書いてみると、やっぱりすごい美しいファンタジーぽいな。でも、私が本作をコメディと捉えた大きな要因は、全体として登場人物がストーリーをドライブさせるパーツとして粛々とハッピーエンドに向かっているように見えたこと。登場人物はみな、ところどこにギャグを織り込みながら大団円へむけて「お約束」を果たしていく。その際、感情の機微などはそれほど重要視されていないように見えた。

まずもってヒロインが半魚人に惹かれる理由がよくわからないし、声が出なくなった経緯もよくわからない。友人との関係性もよくからないし、ゼルダとなぜそこまで親友として信頼関係が構築できたのかもわからない。途中で味方に転ぶホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)が、なぜそこまでヒロインに肩入れするのかもわからない。

観客としては水中で抱き合うヒロインと半魚人という美しいポスターを見ているわけで、映画館に入る前からこの二人が恋に落ちることは分かっているのだが、お相手はなにしろ正体不明で凶暴らしいクリーチャーとして登場するのに、なぜ初期から心があれほどスムーズに通い合ったのか分からない。

コメディだとして見ると、キャラクターがみんなきっちり役割を果たしてくれるし、面白いし、それぞれの演技もすごみがあるし、映像は文句なしに美しいし、まったく不満はないんだけど、ラブロマンスとしては感情の機微に説得力がなくて私は全く乗れなかった。それに、コメディだと考えても納得いかない登場人物の行動はいくつかある。

たとえば、ゼルダの夫がラストシーン近くで見せるある行動。ドラマを前に進める上では大変重要だけど、夫の感情のありかが謎だし、ゼルダがそれに対してあきれたのか、愛を感じたのか、それともほっとしたのか不明でもやもやする。

また、イライザの友人ジャイルズが途中で片思いの相手に振られるシーン。そりゃまあ気の毒ではあるけれど、彼のことを基本的に穏やかで温和な人間だと思っていたのに、恋愛においてはそんなストーカー的かつセクハラ的な行動をするのかと思うと、ヤバいし、端的に不快。彼がマイノリティだというだけでは同情しきれない人格的な問題を感じさせる。しかし作中では一貫していい人ポジションだったので、あの描写の意味がよくわからない。

 

こうした登場人物の中で、実は一番心の機微がよくわかったのはマイケル・シャノン演じる狂気のマッチョ、ストリックランドだ。

彼は、重要機密である魚人を施設から盗み出された咎で上長から叱責を受ける。その時彼は「私は今まであなたの忠実かつ優秀な部下だった。それをたった一度の失敗で切り捨てるのか」と魂をかけて訴える。これに私、すごくぐっときたんですよ。「ほんまにその通りやで!」と思った。こうした理不尽な叱責の場面で、実際にそのようなまっとうな反論をできる人間は少ない。私も今度、業務上のミスで人格を否定されるようなことがあればぜひそう言おう、と誓ったぐらい。しかし上長は彼のその切実な訴えをはねのけてこういう。「まともな人間は一度だって失敗しない」と。

うわー、最低。人間誰しも失敗するに決まってるじゃないですか。失敗をゼロにするには死ぬしかないで。なんしかこいつは上司として最悪のタイプです。しかしそう言われたマイケルシャノンは切羽詰まって暴走する。そりゃそうよなー。分かる。よく分かるよ! マイケルシャノンの壮絶な死に様に「I'll be back」と溶鉱炉に消えたターミネーターの姿を重ねて哀切を感じた。

 

あと、イライザの入浴シーンのおっぱいがよかったです。形も質感も色もめちゃきれいです。映像美を尽くしたああいう映画の中にあって、人間の裸の肉体の一部分がやはりあんなに美しいとは……! 監督の人間賛歌をここに見ました。いいものみた。おっぱい! おっぱい! 

 

一方、マッチョのセックスシーンはお尻の部分にボカシが入っていて、とても醜い。でももともと美しいシーンではないので、ボカシ効果で一層醜さが際立ってよかったかもしれない。彼は妻とのセックスの最中に、話そうとする妻の口を腐りかけの左手でふさぐ。女が喋ると反射的にイラつくタイプの男なのでしょう。だから声を出せないイライザを誘惑しようとしたに違いない。

ほら、やっぱり彼の感情の機微はよくわかる。

 

シェイプ・オブ・ウオーターは、なんといっても、マイケル・シャノンの映画だと思う。 マイケル・シャノン! マイケル・シャノン

痛快なウーマンリブ映画 〜 『エル ELLE』(1)

監督:ポール・バーホーベン、脚本:デヴィッド・バーク、原作:フィリップ・ディジャン『Oh...』
製作:ミヒェル・メルクト、サイド・ベン・サイド
出演:イザベル・ユペールクリスチャン・ベルケルアンヌ・コンシニ、ロラン・ラフィット
2017年 130分、フランス ベルギー ドイツ

 

www.youtube.com

いやー、「痛快」を映画にするとこうなるよね。

 

イザベル・ユペール演じる強いヒロイン、ミシェルが、モラルを蹴散らしながら女の自由を阻むものをひたすら殲滅していく。気持ちいい。ひたすら気持ちいい。

初見時、映画館に行く前にちょっとしたゴタゴタがあって冒頭部分を見逃したということもあり、後日再見した。初見時は意外性のある描写にびっくりしたり戸惑ったりしたせいで、ちょっと感想をまとめきれなかったのだけど、2回目で確信した。これは素晴らしいウーマンリブ映画であると。

勉強不足なので、こう言い切ることに躊躇があるのだけど、私にはずいぶん以前から「フェミニズムに疎外されている」という感覚があり、だからというべきか、なのにというべきか、ウーマンリブを自認している。もちろんフェミニズムウーマンリブは対立概念ではないが、運動や思想というよりは、ややこしい学問として進化を遂げたフェミニズムを理解した上でフェミニストを自称するのはハードルが高い。一方、自由と平等を叫ぶウーマンリブを自称するのに葛藤は不要だ。ウーマンリブとは自由と平等を求める運動であり思想だと私は理解しており、それはまさに、田中美津が2000年に東京大学で行った講演で次のように語った通りである。

 

易々と被害者になるのは、イヤなのです。相手のなすがままに被害者になるのは。それは相手が勝手に「私」に貼り付けた安い値段を許すということだから。たいていのことにはこだわらない私。でも、そのことには、こだわるわ。

私にとって平等とは、「誰でも世界で一番自分が大事」ということです。誰でも世界で自分が一番大事。私が大事なように、あの人も自分が一番大事なのだから、私を大切にするように、あの人も大切にしなきゃいけない。されなきゃいけない。

私にとってリブとは、自分以外の何者にもなりたくないという思いから出発して、それを邪魔するものに対して、なんとか力を合わせて変えていこう、それは女たちみんなの共通の問題だから、ということだったと思うのです。

従来の女性解放運動は権利の獲得や法の改正といった制度的な改革をめざすものでした。でもリブ運動は、自分以外の何者にもなりたくない「私」が、自分以外の何者にもならないですむ世の中を欲して、頑張った運動なのです。もちろんそのために必要なら制度的な改革も行う。しかしそれは他人のまなざし、価値観を生きてしまう「自分」から、自分を取り戻すということを追求しつつやっていくことであって、それ以上ではない。というのがリブの基本の考え方でした。

『かけがえのない、たいしたことのない私』インパクト出版会 所収

 

大事なのは、正しいか正しくないかではない。そう生きたいか生きたくないかだ。
わたしは自由になるためにはなによりも経済的な自立が必要だと考えているし、気持ちよく生きるためには容姿を整えることも重要だと考えている。そうすることが正しいからではなく、個人的な欲望だ。もちろん、それを重要と考えない人はそうしないだろうが、わたしはその選択を否定しない。だからこそ他人にわたしの選択を否定されると腹が立つ。腹が立てば抗議もする。基本的にはそのようにして生きてきたつもり。

しかし、だからといって「世間の正しさ」という呪縛からいつも自由にいられるかというと、これがなかなか難しい。ことに、世間的な正しさと自分の欲望が衝突してしまう場合には……。

というわけで『エル ELLE』ですよ。

ヒロインは、イザベル・ユペール演じるミシェル。ゲーム制作会社を経営するやり手の女社長である。離婚歴のある彼女は現在、閑静な住宅地の瀟洒な一軒家で一人暮らしをしているのだが、映画の冒頭、黒ずくめの覆面男に自宅に押し入られ、レイプ被害を受ける。彼女はなぜかこの事件を警察に届けようとせず、自力で犯人を捜し出そうとするが……。

映画はまるで犯人捜しのミステリのような顔で幕を開ける。しかし、この映画はまったくもってミステリではない。その証拠に、犯人は物語の中盤でさっさと明らかになり、物語はむしろそこからドライブがかかるのだ。主題は犯人捜しではなく、ひとつの犯罪を端緒に、ひとりの女が自分の欲望をどう肯定してゆくか、そのさまを描写することにある。「ELLE=彼女」というタイトル通り、ミシェルというひとりの女、それが映画の主題なのだ。前半では彼女の人物像が周囲の人間関係とともに輪郭を結び、後半では、それらを背景にした彼女の行動が思わぬ方向に転がっていく。

 

(たぶん続く)

 

かけがえのない、大したことのない私

かけがえのない、大したことのない私

 

 

 

関わる必要のないものから遠ざかる

先日、Facebookで文化度の高い知人の文化度の高いつぶやきを見て、そこで使われているロジックが自分の中には全くないものだということに対して反射的に軽く傷ついたのだが、こんなに大人になっても、自分の文化度の低さみたいなものに対する、難しそうな、深そうなことを分かってそうな人に対するコンプレックスがあるのだなあ、と思って自分を苦々しく感じ、反射的にそのことを視界から外して忘れようと思ったのだけど、そういや今年は年頭に、自分が嫌だなと思ったものも冷静に直視してみようという抱負めいたことを考えたことを思い出し、時間をおいてから、ふたたびその文章を読み返してみた。

その人は、ある「庶民に人気の、文化度の低い(?)施設」を名指しでクサしている(ただし文化度の高い語彙で)。そもそもそんな場所に興味はなかったのに、その日の目的地の目の前にたまたま存在していたのでふと寄ってみた、のだそうだ。そして、目的地そのものは「なかなかよかった」というだけで、具体的名称さえ出していない。

これ、あたしだったら、よかった目的地のことだけを具体的に褒めるし、「たまたま寄ったけれど気に入らなかった場所」のことなんてことさらに言及しないよなーと思った。なぜ印象がよかった方の施設の名前を伏せるのだろうか? ふつうは逆じゃないかな、と。よいものを紹介した方が情報としての価値も高いしさ。

誹謗対象になっている施設を好きだと思っている「友達」がたくさんいるだろうと思われるFacebookで、その文化度の低さを嘆く、という行為そのものに、やはり悪意あるいは特権意識が根ざしていることが再読するとはっきりとわかった。わざわざ選んで何を発信し、何を発信しないか、ということは、そこに書かれた意見そのものよりも実は重要なのである。

これまで自分は、なにか自分が傷ついたと感じた瞬間に、たやすく傷ついてしまう自分のダメさから遠ざかりたい一心で、その対象からパッと身を離して、後ろを振り返らずに一目散に逃げる、という行動様式をとりがちだったけど、振り返ってその対象をよく見てみれば、強く思えたその対象の中にも鬱屈はある。あらかじめ悪意が仕込まれたものに傷つくのは当たり前なので、その仕組みや意図を自分なりに理解するのは大切だな、と思った次第。

……というところまで考えたところで夫にその文章を見せると「なにこれ、単に嫌味な文章やん」とあっさり言われ、こんなのに傷つくとかあほちゃうか、という目で見られた。はい、あほですね……。まあ、コンプレックスというのはそういうもんなんでね……。

考えてみればどんだけ文化度の高い文章を読んでも、そこに悪意がなければ「あら素敵〜」と思うだけで、傷ついたりはしないのである。結局のところ、私は当該文章を書いた人に対して、あらかじめ「負けてる感」があったというだけのことなのだろう。

しかし、向こうから勝負を挑まれたわけでも、誰かにジャッジされたわけでもないのに、勝手にあらかじめ負けているというのは、とても滑稽だ。自分でかけた罠に自分でかかっているみたいなものだからね。いや、でも考えようによっては、自分にダメージを負わせる可能性のある相手には不戦敗するこの習慣こそが、ややこしい人間関係のトラブルを引き起こす地雷を遠ざけるバリアになっているような気もしないではない。

これは自分にとって有価値だろうか無価値だろうか、自分はこれが好きだろうか嫌いだろうか、などと思わず考えこんでしまうようなものって、大抵自分にとっては何の価値もない。だって、本当に栄養になるもの、本当に好きなものに出会ったときは、そんなことを考えるまでもなく圧倒的に楽しくて嬉しくてニコニコしてしまうものだから。

 

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絶望の未来の女性像『ブレードランナー2049』

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ、脚本:ハンプトン・ファンチャーマイケル・グリーン
出演:ライアン・ゴズリングハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、シルヴィア・フークスロビン・ライト、マッケンジー・デイヴィス、カーラ・ジュリレニー・ジェームズ、デイヴ・パウティスタ、ジャレッド・レト

 

www.bladerunner2049.j

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 ※微妙に偏ったネタバレあり。

 

なんとなく自分が観る映画じゃないなと思っていた「ブレードランナー2049」を、つい観てしまった。3時間もあるってことすら知らずに観たのだけど、映像が美しいのでさほど長く感じない。しかしその美しい映像で描かれているのは、過密と猥雑が極まった都市と、その周囲に広がる茫漠たる荒廃の郊外。地球はこんなありさまだけど、移住可能な他の星では豊かで人間的な生活が営まれている……(んだよね?)という設定なのだろうが、辛い。というわけで、映画館の外に出た時の世界の美しさが沁みる。世界は少なくとも、まだ、美しい。

映像以外にぐっとくるところもないわけではないのだけど、全体として映画が発するメッセージにはあまり乗れなくてどんよりする。二重にも三重にも否定され続けるKがなにしろ気の毒だし、女性の描かれ方もひっかかる。何しろ女は男を精神的にあるいは性的に、または職務として男を慰撫しサポートする存在であれ、とでもいうような、「未来的」にはほど遠い古くさい類型化が見られるのだ。もちろん、登場人物の多くが、人間が生み出したレプリカント(人造人間)であるという設定からして、彼らの存在が役割目的化するのは極めて自然なことともいえるが、全体として、役割目的化が、男性に関しては否定的に、女性に関しては肯定的に描かれているように見える点はどうか。性別による非対称を感じざるを得ない。

ライアン・ゴズリング演じるKは自身もレプリカント(人造人間)でありながら、人間の命令にそむいたレプリカントを追跡して殺害するのを主な職務とする警官だ。彼はどれほど残酷な職務に従事しようと、精神の均衡と感情の平坦性を失わない。彼は上司の理不尽な命令に心を殺して従う日本の社畜を戯画的に表現しているようにも見えて哀愁たっぷりだ。(ああ、独特の悲しみを湛えるライアン・ゴズリングのタレ目!)

ところが、レプリカントであるはずの彼は、ただ社畜としての自己の存在に満足するにはあまりに豊かな感情(ソウルといってもいい!)を持っており、だからこそ、プライベートでは精神的に慰撫してくれる存在を必要とする。というわけで、めちゃくちゃ美人の3Dホログラムと一緒に暮らしているのである。この、アナ・デ・アルマスが演じるバーチャル彼女(ジョイって名前!)は、夜な夜な「あなたは特別な存在よ」などと囁いて彼の自尊心を高めてくれるばかりか、彼女みずから現実の娼婦を部屋に呼び出して、それに自分の映像を重ねてご主人様に性的な満足まで与えるという……。あ〜。はいはい。美人で優しくてエッチな奥さんがいつも待っててくれたら幸せですわね、そりゃ。

一方、全宇宙の労働力を担うレプリカントの製造を一手に引き受けてウハウハの実業家、ウオレス社のウオレス社長は人間だが(人間だからなおさら、というべきか)、美しすぎるプロポーションを持つ超美人で戦闘能力の超高い秘書レプリカント(ラヴって名前!)を手下として使っている。彼女はKのように苦悩したりせず、ご主人様の命に従って、せっせとビジネスを回すわ、ものは盗むわ、邪魔な人間は殺すわの大活躍。しかしこのラヴ様が作中で一度涙を見せる。それは、ご主人様のウォレス社長が、生殖能力を持つレプリカントの開発に執念を見せる場面なのである。彼女の涙の理由は、子どもが産めない自らの不足を突きつけられることで自己存在が揺らいだ悲しみであるように見える。これって、まさに仕事バリバリやってるキャリアウーマンが「いくら稼いでも、結婚して子ども産まないと、女としてダメな気がするんだよね……」なんていってるみたいな感じじゃないすか。そんな彼女を癒してくれるビューネくんみたいなバーチャル彼氏はいないんですかね? いてもよくね? でもいないよね。いたらジョイ棒(名付けてみた)をあんなに憎々しげに踏みつぶさないよね。

ところでこの世界では人間の女はなにやってるんでしょうか? 生殖こそ人間にしかできない営みであることがすごく強調されていたので、楽園たる他の星でせっせと生殖にいそしんでいるのかもしれない。仕事してるのかな。仕事してるのはむしろ負け組なのかな。ユートピアっぽい他の星での暮らしは明らかにされていないけど、なんとなく嫌な予感がする。女性の人権が守られている気がしない。「産む機械」的な何かになってなきゃいいんだけど。

いや、地球にも人間の女がいましたよ。Kの上司のジョシ警部補! 冷酷ながら、優しさや弱さが垣間見える彼女は確かに人間らしい。しかし、その人間らしさを意志の力で押し潰したまま彼女は殉職してしまう。Kになにか特別な思いがあったのやもしれないけれども、それも今や闇のなか。もう1人の女性、ステリン博士は、神聖なるリーダーとしての資格がある由緒正しき巫女。俗世と縁を絶った女は聖女として特別扱いが許されるわけです。結局人間らしさって何なのさ。

Kは、バーチャル彼女に言われた「あなたは特別だ。なぜなら〝生まれてきた〟のだから」という趣旨の言葉をアイデンティティのよりどころにするも、その事実が否定されたとき、彼女がいまわのきわに放った「愛している」という言葉をもはや信じることはできない。ありふれたレプリカントとして、やがて死んでいくのだろう。

でも本当はいいのだ。生まれてなくてもいなくても。本当の愛などあってもなくても。純粋な役割にすぎないものから、愛や信頼や慈しみが生まれたら、それを「余分なもの」と切って捨てずに、役割を超えた存在として互いに尊重していきたい。映画なんだから、フィクションなんだから、本当は、そういう未来が見たいのだ。

 

この世で最も酸っぱくて苦いレモンからつくったレモネード

TBSラジオの菊地成孔の粋な夜電波、朝4時からの深夜帯(早朝帯?)に移動して一発目をradikoのタイムシフトで聴いて、いつも菊地さんの語りはいいのだけど、「追悼会」と銘打った今回の語りの迫力は尋常ではなかったので、冒頭のもすごくよかったけど、個人的に、より個人的な菊地さんの追悼である、母をテーマにした中盤の語りに、なんといういうか、冷静な慟哭を聞いたので、おもわず書き起こしてしまった。「この世で最も苦いレモン」から滋養豊かなレモネードを作ることは、そしてそれを飲むことは、または周囲に振る舞うことは、それこそが人生ではないかと思う。苦さを残しつつ、苦さの奥の美味にも気づきつつ。

そういう感じ方は、もちろん私の傲慢でもあるけれど、でも、もう仕方ない。傲慢であることも、酷薄であることも。

 

 

===  以下、語りの書き起こし  ===

僕の母親は認知症パーキンソン病と老衰の合併で死んだ。
僕が誰か分からなくなってから8年。人間の言葉を話さなくなってから5年。まったく声も発さず、動きもしない、中型のは虫類のようになってから3年。つまりとてつもなくゆっくりと彼女は死んでいった。いつさよならをいったか、まだ言ってないのかは、だから、まだ分からないままだ。

彼女は口も目も大きく開けたまま亡くなっていた。介護士の人たちは洟をすすっていて、僕は、神さまが罪深い僕にくれた、この世でいちばん酸っぱくて苦いレモンをなんとかレモネードにして介護の人たちにふるまうことにした。

兄は事務手続きを済ませた。14も歳の離れた男兄弟で、どっちがマザコンか、という議論は時間の無駄に過ぎないだろう。でも僕は知っている。彼の方がはるかにダメージを受けている、ということを。そして、色々なことを思い出してしまう時、つまり耐えがたいほど辛い時がきたら、あのレモネードを一杯。「ほら」といって肩を叩く。

僕と兄は2人で、天に向けて祈りでも捧げているかのような格好をした母親の遺体を真ん中に置いた巨大な生け花作品を作った。小説家と音楽家にしてはそこそこのデキだったと思う。百合を、菊を、見たこともない花々を。

その遺影をデジタルカメラの中に入れて持ち歩いている、というと、たまに「よかったら見せてほしい」という人がいた。彼女たちは全員が女性だった。ある女性は瞳孔を開き「狂えるオフェーリアのようだ。美しさにいま動揺している、ごめんなさい」といって僕の右腕を強く掴んだ。ある女性は泣き出して「自分が死んだら誰が花を飾ってくれるのだろうか」と僕に訊いた。ある女性は、長い沈黙の後に優しく微笑んで「あなたお母様にそっくりだったのね」といった。

母は下の子である僕を可愛がらなかったが、たくさんのことを教えてくれた。戦争が起こったら、空爆があったら、どうやって逃げるか。体力ではかなわない相手とケンカをし、相手を制圧するには、まず何から言えばいいか。そして何より、もっとも凄い教育は音楽の授業だった。

まだ声が出せるころ、彼女は赤ん坊のように全身を使って声を限りに泣いた。そして体を震わせ、涙を流して泣きながら、それがモーフィングして、途切れることなく普通の民謡になるのだった。もちろん泣いてはいない。平然と、普通に民謡を歌っている状態になるのだ。歌っている間に泣き出した女性、なら、何百人見たかわからない。しかし、慟哭がいい調子の民謡に変わるのは、まるでVTRを逆転再生しているようだった。あの歌を録音しておかなかったことを、僕はいまだに悔やんでいる。ひょっとしたら、彼女が亡くなったこと以上に。

子守歌など一度も歌ったことがないくせに、彼女は歌の生まれ方の一種の極限値を僕に授けた。あのとき母親から得た歌に関する最も深遠な教えを、僕は一生忘れないだろう。厳密には、どれほど忘れたくなっても忘れることはできないのだ。僕はステージで歌をうたう。そのとき、母親のあの姿を忘れたことは一度もない。

家族がどうしても愛せない人へ。
あなたは恥ずべき人でも許されざる悪人でもなんでもない。この世で最も酸っぱくて苦いレモンから作ったレモネードは、栄養豊富な呪いであり、そのテーマは「生と死の逆転」であることに間違いない。


===  ありがとうございます  ===

 

www.tbsradio.jp

別珍の赤いスカート

むかし、といっても7、8年前のことだと思うのだけど、ふと(多分なにか写真とか雑誌とかを見て)真っ赤なスカートが欲しい! こう、ウエストがきゅっとしてふわっとした、昔っぽいやつ! と思ったことがあって、そう思うといてもたってもいられなくなって、買い物に出かけたことがある。

 

でも、私がぼんやりと思い描いていた「動脈血のような真っ赤」も、「腰がキュッで裾がふわ〜」も、当時のトレンドではなかったみたいで、知ってる店をいくつかハシゴしてもイメージ通りのスカートは見つからなかった。いい加減疲れてきたころ、レトロな雑居ビルの1階にある小さい古着屋さんを訪ねて店内をぶらぶら見ていたら、おしゃれな店員さんが「上の階の倉庫にストックを置いてあるので『こういうのが欲しい』って教えてくれたら何か探してきますよ」と声を掛けてくれた。

 

「真っ赤なスカートが欲しいんですけど」というと、待ってましたとばかりに彼女の目がキラーン☆と輝いた。そして私ひとりを店に置き去りにして倉庫に消え、数分後には両腕にたくさん赤い服を抱えて戻ってきてくれた。さまざまな赤があった。派手なプリントのものもあれば、テロンとした光沢の美しいもの、刺繍やレースをたっぷり盛ったもの……。その中に、深い赤の別珍の生地で仕立てた、広がりすぎないフレアの膝丈ぐらいのスカートがあった。ウエストにはゴムでなく、堅い堅いベルト芯が入っていて、古びた金具でひっかけて留めるようになっていた。金具はひとつしかついていないのでサイズ調整はできない。タグはなくて、どうもどこかの家庭で手作りされたもののようだった。

 

店の一角にある、半円形のカーテンレールから布を垂らしただけの試着室で、うきうきしながら試着した。着る前から分かっていたけど、それは私にぴったりのサイズだった。その日着ていた黒のタートルネックのセーターに、それはいかにも似合っていたので、もうそのままの恰好で帰ることにした。私も嬉しかったけど、店員さんも嬉しそうだった。彼女は、わたしが履いていたデニムを紙袋に入れながら「こういうふうに、ちゃんと買うべき人に買ってもらうと、とても嬉しいです」といってくれた。

 

その赤いスカートは、それから何日も続けてはいたし、はいていると何度も人に褒められた。もう似合わないからあまり着ないけど、クローゼットにひっそり吊ってあるそれが目に触れるたび、ああ、あれは私の半生の中でも1、2を争う幸福な買い物だったなーと、あの日の帰り道の高揚感を思い出す。

 

 

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