うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

関わる必要のないものから遠ざかる

先日、Facebookで文化度の高い知人の文化度の高いつぶやきを見て、そこで使われているロジックが自分の中には全くないものだということに対して反射的に軽く傷ついたのだが、こんなに大人になっても、自分の文化度の低さみたいなものに対する、難しそうな、深そうなことを分かってそうな人に対するコンプレックスがあるのだなあ、と思って自分を苦々しく感じ、反射的にそのことを視界から外して忘れようと思ったのだけど、そういや今年は年頭に、自分が嫌だなと思ったものも冷静に直視してみようという抱負めいたことを考えたことを思い出し、時間をおいてから、ふたたびその文章を読み返してみた。

その人は、ある「庶民に人気の、文化度の低い(?)施設」を名指しでクサしている(ただし文化度の高い語彙で)。そもそもそんな場所に興味はなかったのに、その日の目的地の目の前にたまたま存在していたのでふと寄ってみた、のだそうだ。そして、目的地そのものは「なかなかよかった」というだけで、具体的名称さえ出していない。

これ、あたしだったら、よかった目的地のことだけを具体的に褒めるし、「たまたま寄ったけれど気に入らなかった場所」のことなんてことさらに言及しないよなーと思った。なぜ印象がよかった方の施設の名前を伏せるのだろうか? ふつうは逆じゃないかな、と。よいものを紹介した方が情報としての価値も高いしさ。

誹謗対象になっている施設を好きだと思っている「友達」がたくさんいるだろうと思われるFacebookで、その文化度の低さを嘆く、という行為そのものに、やはり悪意あるいは特権意識が根ざしていることが再読するとはっきりとわかった。わざわざ選んで何を発信し、何を発信しないか、ということは、そこに書かれた意見そのものよりも実は重要なのである。

これまで自分は、なにか自分が傷ついたと感じた瞬間に、たやすく傷ついてしまう自分のダメさから遠ざかりたい一心で、その対象からパッと身を離して、後ろを振り返らずに一目散に逃げる、という行動様式をとりがちだったけど、振り返ってその対象をよく見てみれば、強く思えたその対象の中にも鬱屈はある。あらかじめ悪意が仕込まれたものに傷つくのは当たり前なので、その仕組みや意図を自分なりに理解するのは大切だな、と思った次第。

……というところまで考えたところで夫にその文章を見せると「なにこれ、単に嫌味な文章やん」とあっさり言われ、こんなのに傷つくとかあほちゃうか、という目で見られた。はい、あほですね……。まあ、コンプレックスというのはそういうもんなんでね……。

考えてみればどんだけ文化度の高い文章を読んでも、そこに悪意がなければ「あら素敵〜」と思うだけで、傷ついたりはしないのである。結局のところ、私は当該文章を書いた人に対して、あらかじめ「負けてる感」があったというだけのことなのだろう。

しかし、向こうから勝負を挑まれたわけでも、誰かにジャッジされたわけでもないのに、勝手にあらかじめ負けているというのは、とても滑稽だ。自分でかけた罠に自分でかかっているみたいなものだからね。いや、でも考えようによっては、自分にダメージを負わせる可能性のある相手には不戦敗するこの習慣こそが、ややこしい人間関係のトラブルを引き起こす地雷を遠ざけるバリアになっているような気もしないではない。

これは自分にとって有価値だろうか無価値だろうか、自分はこれが好きだろうか嫌いだろうか、などと思わず考えこんでしまうようなものって、大抵自分にとっては何の価値もない。だって、本当に栄養になるもの、本当に好きなものに出会ったときは、そんなことを考えるまでもなく圧倒的に楽しくて嬉しくてニコニコしてしまうものだから。

 

f:id:moving-too-much:20171118123745j:plain

絶望の未来の女性像『ブレードランナー2049』

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ、脚本:ハンプトン・ファンチャーマイケル・グリーン
出演:ライアン・ゴズリングハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、シルヴィア・フークスロビン・ライト、マッケンジー・デイヴィス、カーラ・ジュリレニー・ジェームズ、デイヴ・パウティスタ、ジャレッド・レト

 

www.bladerunner2049.j

f:id:moving-too-much:20171101174534p:plain

 

 ※微妙に偏ったネタバレあり。

 

なんとなく自分が観る映画じゃないなと思っていた「ブレードランナー2049」を、つい観てしまった。3時間もあるってことすら知らずに観たのだけど、映像が美しいのでさほど長く感じない。しかしその美しい映像で描かれているのは、過密と猥雑が極まった都市と、その周囲に広がる茫漠たる荒廃の郊外。地球はこんなありさまだけど、移住可能な他の星では豊かで人間的な生活が営まれている……(んだよね?)という設定なのだろうが、辛い。というわけで、映画館の外に出た時の世界の美しさが沁みる。世界は少なくとも、まだ、美しい。

映像以外にぐっとくるところもないわけではないのだけど、全体として映画が発するメッセージにはあまり乗れなくてどんよりする。二重にも三重にも否定され続けるKがなにしろ気の毒だし、女性の描かれ方もひっかかる。何しろ女は男を精神的にあるいは性的に、または職務として男を慰撫しサポートする存在であれ、とでもいうような、「未来的」にはほど遠い古くさい類型化が見られるのだ。もちろん、登場人物の多くが、人間が生み出したレプリカント(人造人間)であるという設定からして、彼らの存在が役割目的化するのは極めて自然なことともいえるが、全体として、役割目的化が、男性に関しては否定的に、女性に関しては肯定的に描かれているように見える点はどうか。性別による非対称を感じざるを得ない。

ライアン・ゴズリング演じるKは自身もレプリカント(人造人間)でありながら、人間の命令にそむいたレプリカントを追跡して殺害するのを主な職務とする警官だ。彼はどれほど残酷な職務に従事しようと、精神の均衡と感情の平坦性を失わない。彼は上司の理不尽な命令に心を殺して従う日本の社畜を戯画的に表現しているようにも見えて哀愁たっぷりだ。(ああ、独特の悲しみを湛えるライアン・ゴズリングのタレ目!)

ところが、レプリカントであるはずの彼は、ただ社畜としての自己の存在に満足するにはあまりに豊かな感情(ソウルといってもいい!)を持っており、だからこそ、プライベートでは精神的に慰撫してくれる存在を必要とする。というわけで、めちゃくちゃ美人の3Dホログラムと一緒に暮らしているのである。この、アナ・デ・アルマスが演じるバーチャル彼女(ジョイって名前!)は、夜な夜な「あなたは特別な存在よ」などと囁いて彼の自尊心を高めてくれるばかりか、彼女みずから現実の娼婦を部屋に呼び出して、それに自分の映像を重ねてご主人様に性的な満足まで与えるという……。あ〜。はいはい。美人で優しくてエッチな奥さんがいつも待っててくれたら幸せですわね、そりゃ。

一方、全宇宙の労働力を担うレプリカントの製造を一手に引き受けてウハウハの実業家、ウオレス社のウオレス社長は人間だが(人間だからなおさら、というべきか)、美しすぎるプロポーションを持つ超美人で戦闘能力の超高い秘書レプリカント(ラヴって名前!)を手下として使っている。彼女はKのように苦悩したりせず、ご主人様の命に従って、せっせとビジネスを回すわ、ものは盗むわ、邪魔な人間は殺すわの大活躍。しかしこのラヴ様が作中で一度涙を見せる。それは、ご主人様のウォレス社長が、生殖能力を持つレプリカントの開発に執念を見せる場面なのである。彼女の涙の理由は、子どもが産めない自らの不足を突きつけられることで自己存在が揺らいだ悲しみであるように見える。これって、まさに仕事バリバリやってるキャリアウーマンが「いくら稼いでも、結婚して子ども産まないと、女としてダメな気がするんだよね……」なんていってるみたいな感じじゃないすか。そんな彼女を癒してくれるビューネくんみたいなバーチャル彼氏はいないんですかね? いてもよくね? でもいないよね。いたらジョイ棒(名付けてみた)をあんなに憎々しげに踏みつぶさないよね。

ところでこの世界では人間の女はなにやってるんでしょうか? 生殖こそ人間にしかできない営みであることがすごく強調されていたので、楽園たる他の星でせっせと生殖にいそしんでいるのかもしれない。仕事してるのかな。仕事してるのはむしろ負け組なのかな。ユートピアっぽい他の星での暮らしは明らかにされていないけど、なんとなく嫌な予感がする。女性の人権が守られている気がしない。「産む機械」的な何かになってなきゃいいんだけど。

いや、地球にも人間の女がいましたよ。Kの上司のジョシ警部補! 冷酷ながら、優しさや弱さが垣間見える彼女は確かに人間らしい。しかし、その人間らしさを意志の力で押し潰したまま彼女は殉職してしまう。Kになにか特別な思いがあったのやもしれないけれども、それも今や闇のなか。もう1人の女性、ステリン博士は、神聖なるリーダーとしての資格がある由緒正しき巫女。俗世と縁を絶った女は聖女として特別扱いが許されるわけです。結局人間らしさって何なのさ。

Kは、バーチャル彼女に言われた「あなたは特別だ。なぜなら〝生まれてきた〟のだから」という趣旨の言葉をアイデンティティのよりどころにするも、その事実が否定されたとき、彼女がいまわのきわに放った「愛している」という言葉をもはや信じることはできない。ありふれたレプリカントとして、やがて死んでいくのだろう。

でも本当はいいのだ。生まれてなくてもいなくても。本当の愛などあってもなくても。純粋な役割にすぎないものから、愛や信頼や慈しみが生まれたら、それを「余分なもの」と切って捨てずに、役割を超えた存在として互いに尊重していきたい。映画なんだから、フィクションなんだから、本当は、そういう未来が見たいのだ。

 

この世で最も酸っぱくて苦いレモンからつくったレモネード

TBSラジオの菊地成孔の粋な夜電波、朝4時からの深夜帯(早朝帯?)に移動して一発目をradikoのタイムシフトで聴いて、いつも菊地さんの語りはいいのだけど、「追悼会」と銘打った今回の語りの迫力は尋常ではなかったので、冒頭のもすごくよかったけど、個人的に、より個人的な菊地さんの追悼である、母をテーマにした中盤の語りに、なんといういうか、冷静な慟哭を聞いたので、おもわず書き起こしてしまった。「この世で最も苦いレモン」から滋養豊かなレモネードを作ることは、そしてそれを飲むことは、または周囲に振る舞うことは、それこそが人生ではないかと思う。苦さを残しつつ、苦さの奥の美味にも気づきつつ。

そういう感じ方は、もちろん私の傲慢でもあるけれど、でも、もう仕方ない。傲慢であることも、酷薄であることも。

 

 

===  以下、語りの書き起こし  ===

僕の母親は認知症パーキンソン病と老衰の合併で死んだ。
僕が誰か分からなくなってから8年。人間の言葉を話さなくなってから5年。まったく声も発さず、動きもしない、中型のは虫類のようになってから3年。つまりとてつもなくゆっくりと彼女は死んでいった。いつさよならをいったか、まだ言ってないのかは、だから、まだ分からないままだ。

彼女は口も目も大きく開けたまま亡くなっていた。介護士の人たちは洟をすすっていて、僕は、神さまが罪深い僕にくれた、この世でいちばん酸っぱくて苦いレモンをなんとかレモネードにして介護の人たちにふるまうことにした。

兄は事務手続きを済ませた。14も歳の離れた男兄弟で、どっちがマザコンか、という議論は時間の無駄に過ぎないだろう。でも僕は知っている。彼の方がはるかにダメージを受けている、ということを。そして、色々なことを思い出してしまう時、つまり耐えがたいほど辛い時がきたら、あのレモネードを一杯。「ほら」といって肩を叩く。

僕と兄は2人で、天に向けて祈りでも捧げているかのような格好をした母親の遺体を真ん中に置いた巨大な生け花作品を作った。小説家と音楽家にしてはそこそこのデキだったと思う。百合を、菊を、見たこともない花々を。

その遺影をデジタルカメラの中に入れて持ち歩いている、というと、たまに「よかったら見せてほしい」という人がいた。彼女たちは全員が女性だった。ある女性は瞳孔を開き「狂えるオフェーリアのようだ。美しさにいま動揺している、ごめんなさい」といって僕の右腕を強く掴んだ。ある女性は泣き出して「自分が死んだら誰が花を飾ってくれるのだろうか」と僕に訊いた。ある女性は、長い沈黙の後に優しく微笑んで「あなたお母様にそっくりだったのね」といった。

母は下の子である僕を可愛がらなかったが、たくさんのことを教えてくれた。戦争が起こったら、空爆があったら、どうやって逃げるか。体力ではかなわない相手とケンカをし、相手を制圧するには、まず何から言えばいいか。そして何より、もっとも凄い教育は音楽の授業だった。

まだ声が出せるころ、彼女は赤ん坊のように全身を使って声を限りに泣いた。そして体を震わせ、涙を流して泣きながら、それがモーフィングして、途切れることなく普通の民謡になるのだった。もちろん泣いてはいない。平然と、普通に民謡を歌っている状態になるのだ。歌っている間に泣き出した女性、なら、何百人見たかわからない。しかし、慟哭がいい調子の民謡に変わるのは、まるでVTRを逆転再生しているようだった。あの歌を録音しておかなかったことを、僕はいまだに悔やんでいる。ひょっとしたら、彼女が亡くなったこと以上に。

子守歌など一度も歌ったことがないくせに、彼女は歌の生まれ方の一種の極限値を僕に授けた。あのとき母親から得た歌に関する最も深遠な教えを、僕は一生忘れないだろう。厳密には、どれほど忘れたくなっても忘れることはできないのだ。僕はステージで歌をうたう。そのとき、母親のあの姿を忘れたことは一度もない。

家族がどうしても愛せない人へ。
あなたは恥ずべき人でも許されざる悪人でもなんでもない。この世で最も酸っぱくて苦いレモンから作ったレモネードは、栄養豊富な呪いであり、そのテーマは「生と死の逆転」であることに間違いない。


===  ありがとうございます  ===

 

www.tbsradio.jp

別珍の赤いスカート

むかし、といっても7、8年前のことだと思うのだけど、ふと(多分なにか写真とか雑誌とかを見て)真っ赤なスカートが欲しい! こう、ウエストがきゅっとしてふわっとした、昔っぽいやつ! と思ったことがあって、そう思うといてもたってもいられなくなって、買い物に出かけたことがある。

 

でも、私がぼんやりと思い描いていた「動脈血のような真っ赤」も、「腰がキュッで裾がふわ〜」も、当時のトレンドではなかったみたいで、知ってる店をいくつかハシゴしてもイメージ通りのスカートは見つからなかった。いい加減疲れてきたころ、レトロな雑居ビルの1階にある小さい古着屋さんを訪ねて店内をぶらぶら見ていたら、おしゃれな店員さんが「上の階の倉庫にストックを置いてあるので『こういうのが欲しい』って教えてくれたら何か探してきますよ」と声を掛けてくれた。

 

「真っ赤なスカートが欲しいんですけど」というと、待ってましたとばかりに彼女の目がキラーン☆と輝いた。そして私ひとりを店に置き去りにして倉庫に消え、数分後には両腕にたくさん赤い服を抱えて戻ってきてくれた。さまざまな赤があった。派手なプリントのものもあれば、テロンとした光沢の美しいもの、刺繍やレースをたっぷり盛ったもの……。その中に、深い赤の別珍の生地で仕立てた、広がりすぎないフレアの膝丈ぐらいのスカートがあった。ウエストにはゴムでなく、堅い堅いベルト芯が入っていて、古びた金具でひっかけて留めるようになっていた。金具はひとつしかついていないのでサイズ調整はできない。タグはなくて、どうもどこかの家庭で手作りされたもののようだった。

 

店の一角にある、半円形のカーテンレールから布を垂らしただけの試着室で、うきうきしながら試着した。着る前から分かっていたけど、それは私にぴったりのサイズだった。その日着ていた黒のタートルネックのセーターに、それはいかにも似合っていたので、もうそのままの恰好で帰ることにした。私も嬉しかったけど、店員さんも嬉しそうだった。彼女は、わたしが履いていたデニムを紙袋に入れながら「こういうふうに、ちゃんと買うべき人に買ってもらうと、とても嬉しいです」といってくれた。

 

その赤いスカートは、それから何日も続けてはいたし、はいていると何度も人に褒められた。もう似合わないからあまり着ないけど、クローゼットにひっそり吊ってあるそれが目に触れるたび、ああ、あれは私の半生の中でも1、2を争う幸福な買い物だったなーと、あの日の帰り道の高揚感を思い出す。

 

 

f:id:moving-too-much:20100101010657j:plain

日帰り出張の車窓から

交通網の発達というのは素晴らしいもので、もう、日本中大抵どこでも出張は日帰りだ。関西からだと、東北や九州、北海道の一部は難しいけれど、あ、あと意外に愛媛とかも大変だけど、新幹線の駅があったり空港があるまちなら楽勝だし、公共交通機関が通じていれば無理なく日帰りできる場所は多い。

特に私のような仕事の場合、出張の目的はその場所にいる特定人物の話を聞くことなので、長くても3時間あれば用は済む。よほど早朝や夜遅くに現場にいなければならない事情がなければ、往復の移動に10時間かかったとしても日帰りで事足りる。

今日の行き先は新潟で、これを私は帰りの新幹線で書いているわけだが、東海道新幹線で神戸から東京へ出て、上越新幹線に乗り換えて新潟へ向かう。これで片道5時間半ぐらい。新幹線の駅に向かう行程も含めれば6時間。往復12時間というと結構すごい。新潟はまあまあアクセスの悪い場所だ。

だからといってそういう仕事が入るとイヤかというと、全然そんなことはなく、楽しい。そもそも自分は行動力がないので、仕事でもなければ知らない街に行ったりしない。そんな私でも知らない街を見るのは楽しい。しかし、旅行じゃないから楽しまなくても損はしない。しかし、車窓から風景を眺めているだけで楽しいのだからどのみち得だ。もちろん損得の話ではないけれど。

上越新幹線の「Maxとき」は二階建て。東京駅を出た直後は当然のように周囲はまだ東京のど真ん中だが、二階席から眺めれば、もうそれは越後への道中。東京駅を出た瞬間から楽しい。

 

f:id:moving-too-much:20170927102554j:plain

f:id:moving-too-much:20170927102651j:plain

都市はよく森にたとえられるが(たとえられるよね?)、東京の街はほんとうに森で、しかも、地下深くから地上高くまで、いろいろな魑魅魍魎が暮らす魔の森だ。

ひるがえって、私が暮らす関西はそもそも、人が暮らすべくして暮らした場所なので、地形に無理がなく破綻がない。その風景に慣れていると、東京の無理無理しく禍々しい感じにどうしたって目を奪われる。川は深すぎるし、坂は急すぎるし、道は曲がりすぎている。方向感覚を狂わせる樹海の様相。二階席から見下ろすと、まちの立体感が迫ってくるのでくらくらするほど面白い。面白い、面白い、と何度も車窓にカメラを向けるが、撮った写真は全く面白くない。あー。

 

そんな私の気持ちなどどうでもよさげに、上越新幹線はすごいスピードで日本を横断する。東京から埼玉、群馬、そして新潟。湯沢、米どころ魚沼。長岡、三条……。

 

f:id:moving-too-much:20170927164410j:plain

f:id:moving-too-much:20170927121746j:plain

湯沢には高い山がそびえていたし。長岡では蓮根畑が目に付いた。新潟は見渡す限り田んぼが続く。田んぼ、田んぼ、田んぼ。美しくて気が遠くなる。

トンネルの中では本を読み、窓の外が明るくなるとiPhoneGoogleマップをタップして、自分が今どこにいるのかを確認する。そして写真を撮る。撮っても撮っても目の前の風景は写らない。目の前の風景のミニチュアですらない。圧倒的につまらない画像でしかない。でも撮らずにいられない。八海山。トンネル。スキー場。トンネル。田んぼ。田んぼ。田んぼ、まち、まち、まち。

f:id:moving-too-much:20170927173306j:plain

f:id:moving-too-much:20170927173314j:plain

 

驚くほど多くの人が暮らしている。このまちは知らないまちだ。道の真ん中に自転車を止めて話しているカップルがいる。田んぼの真ん中で雑草を抜くおばあちゃんがいる。つぶれたガソリンスタンドがあり、大きなダイソーがある。キャベツ畑があり、鳥が飛んでいる。

移動している私は、この景色の中でどういう立場か分からない。風景と交わることなくただただ高速で移動を続ける。グーグルマップの現在位置のポイントはすごい勢いで移動し続ける。そして、狂っているとしか思えないほどの正確さで、切符に印刷された通りの正しい時間きっかりに目的地に運んでくれるのだ。

 

5年後に見返したい、温かく退屈な映画『パターソン』

監督:ジム・ジャームッシュ 、製作:ジョシュア・アストラカン カーター・ローガン、製作総指揮:オリバー・ジーモン ダニエル・バウアー
キャスト:アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ、バリー・シャバカ・ヘンリー、クリフ・スミス、チャステン・ハーモン

 

とにかく、予告編が素晴らしくてね。

主人公は、ニュージャージー州パターソンに暮らすパターソン。街と同じ名前を持つバス・ドライバーだ(演じるのは、アダム・ドライバー!)。寡黙でシャイで、繊細な観察眼と豊かな感受性を持つ彼は、日々の仕事の傍らで詩を書きためており、そこには、淡々とした、しかし愛と奇妙な偶然と幸せに満ちた日常が織り込まれている。同じようでいて、少しずつ異なる日常。詩のような暮らし、暮らしのような詩……。

 

www.youtube.com

映画のエッセンスが適度にリズミカルに、ペーソスとユーモアを交えつつみずみずしく表現されている。いい。素晴らしい予告編だ。ね、素晴らしいですよね?

見ると、とてもゆったりとしたいい気持ちになって、いい人になれそう……。わくわくして映画館に足を運んだ。

 

映画が描くのは、ある月曜日から日曜日までの1週間だ。朝、彼は妻とともに心地よく布団にくるまっている。ほどなく目覚める。そして、出勤前に小さなノートを開き、マッチ箱をモチーフにした詩をさらさらと綴る。その言葉は、観客が見つめる画面上に筆写される。独特の浮遊感。観客は詩のリズムに身を委ねる。心地よい。

 

……しかし、心地よすぎた。私はすぐに寝た。

はっ! 目覚めた。パターソンはバスに乗っている。同僚とのやりとり、車中の人間模様。意味ありげに登場する双子たち……。私はまた寝た。

はっ! 目覚めた。移りゆく街の景色。パターソンの柔和なまなざし、お弁当……。私はまたもや寝た。

 

だめだ。我慢しても我慢しても眠気が襲ってくる。もう無理だ。めちゃくちゃ眠い。ひょっとして私、退屈しているのではないか? 認めたくなかったので、必死で目覚めようとした。手の甲をつねったり、口の中を噛んだり、太ももに爪を立てたりした。でも寝た。繰り返し寝た。何度も寝た。たぶん4分の1ぐらい寝てたんじゃないかな。映画が半分を過ぎたころには、自分が退屈していることがはっきり分かった。とても残念だった。私にはこの、みんなが褒める秀作を丁寧に鑑賞するに足る教養がなかったのだ。一抹の敗北感。

 

似たようでいて、少しずつ違う1週間を淡々と綴るこの映像が「映画という形式の詩」であることはわかった。モチーフの繰り返し、イマジネーションの上品な逸脱、意味の脱臼と押韻。分かる。分かるんだけど、もう少し予告編のようなテンポが欲しかった。あまりにゆったりとしたこの映画のリズムに、私の体はついていけなかった。ダメだ。無理だった。そう思いながらも、鑑賞後数日、いろんなシーンが脳裏に浮かぶので、見た後も気にはなっていた。思い返すシーンは、明らかに好きなのだ。

最も好きだったのは、パターソンが妻・ローラにやさしく触れるところ。ベッドの中で体を抱いたり、半睡半醒の妻にそっとキスしたり、いかにもそうっとした動作がとても心地よさそうで、体温や肌のきめまで分かる気がした。

 

あるいは、夜のコインランドリーで体を揺らしながら、リリックを作るラッパーが登場するシーン。そこだけ明るいコインランドリー。回る洗濯物。犬とともに暗がりから詩に聞き入るパターソン。こんな風に、ほんのわずかな関係性が交錯しただけなのに、リスペクトが交わる瞬間があり、その余韻は心を温かくしてくれる。優しくて愛のある素敵なシーンだった。

 

一方で、モヤモヤするシーンもあった。いや、そんなシーンなかったっけ。うん? でもずっとモヤモヤしてたよね、あたし。なんだったんだろう、あれ……。

 

そんなことを考えているときに、『パターソン』を見た友人が同作をレビューしたブログを読むと以下のような表現があって、「そう、それそれ!!」と思った。

でも主人公は奥さんが何をしてもたまににこにこする以外はぼんやりした顔で
愛おしそうにはするんだけど、どうも現実感がないんですよ。

他にもいろいろ、主人公は満足してるようだけど
わたしから見たら我慢してるように見えるシーンがいくつもあって

でもとても愛し慈しみ合う二人ということのようなので、よくわからない。

blog.goo.ne.jp

そうなんですよ、そう!

この夫婦、本当に仲がいいのかどうか、画面からだとよく分からないんだよね。というか、むしろ裏があるように見えるのだ。夫婦だけじゃない。全体的にパターソンを取り巻く人間関係はすべて不穏に見える。でも、映画としてはそれがなかったことになっている。それに対して、ものすごくモヤモヤしたのである。

上記で言及されているように、まずは夫婦の関係。

パターソンの妻・ローラはめちゃくちゃ美人なんだけど、個性的なファッションセンスと、浮き世離れした言動で性格づけられた「アーティスト」(実際は何なのかよくわからない)で、常に地面から3㎝ほど浮いているような人である。この彼女が、突然「ギターを買いたい! 買っていい?」とパターソンにねだってみたり、なんかすごく不味いらしいへんてこな料理(という設定らしいのだが、画面ではとてもおいしそうに見える)を作ったりする。

それを受けたパターソンは、明らかにちょっと戸惑った様子で「いいよ。買ったら?」と、おそらく心にもない言葉で買い物を承認してみたり、まずい料理を口に無理矢理入れて「おいしいよ」といいながら水で流し込んだりする。ローラをそれを見てもパターソンの戸惑いや妙な挙動には一切気づかず、ニコニコと素直に喜ぶのみである。ピュアな彼女は夫の言動の裏を読んだりしないのだ。

しかしこれ、普通に考えてめちゃくちゃ不穏なシーンじゃないですかね。これを伏線にして、やがてパターソンが妻にキレるのではないかと不安になりますよ、普通。

 

この妻は日常的に夫の詩を激賞しているのだけど、この褒め言葉も信じて言いのかどうかよく分からないし、小遣い稼ぎに作っているカップケーキも美味しいのかまずいのか判然としない。彼女の趣味にどんどん染め上げられるインテリアが、パターソンにくつろぎを与えているようには見えないし、週末のデートで彼女が見たがる古いホラー映画を夫が観たいと思っているようにも見えない。火種はたっぷりあるのだ。

 

あるいは映画の後半で、飼い犬がパターソンの大切にしているものをめちゃくちゃにしてしまうのだが、ここでは珍しくパターソンが怒りを表に出す。

私はビビった。キレたパターソンが暴れる血みどろの展開もあり得ると思ったのだ。本当はこの犬のことを憎んでいるのではないか。「そもそもお前なんか死ねばいいと思ってたんだ、このアホ犬! 毎日郵便受けを倒しやがって!」とか言い出すんじゃないかと。

バーでちょっとした騒動が起きたときのパターソンの行動も少し不気味だし、会うたびに生活の不満をぶつけてくる同僚や、くだらない会話をする乗客にも苛立っているように見えないこともない。

さらに劇中には「パターソンの腕っ節が実は強い」ことを示唆するシーンがいくつかあり、私は「彼の柔和さは、本性をくるむ衣にすぎないのではないか」という疑念をうっすら抱いていたからなおさらだ。

 

しかし、結局何も起こらない。

「裏なんてないよーん。徹頭徹尾これは温かい日常を描いた映画なんですよーん」という顔で映画が終わってしまえば、劇中に漂っていた不穏な空気はなかったことになり、個人的なモヤモヤだけが疑問符を内包してぼんやりと漂い続ける。このモヤモヤ、誰が回収してくれるのか……。

 

かように本作には「映画の前提」と「劇中の表現」に微妙な、しかし決定的なレベルで齟齬がある……ように見えるのは私だけ? 

いや、おそらく私は鑑賞するにあたっての心構えが中途半端だったのである。端的にいって教養がなかった。この映画は、ジム・ジャームッシュの世界観をあらかじめ共有し、「目立ったことは何も起こらない映像詩」を鑑賞しようという期待と意気込みを有する者が見るべき映画なのである。であれば、私が違和感を感じた表現も「淡々とした日常にアクセントを添えるもの」としてほっこりスルーできるだろうし、永瀬正敏が唐突に登場する、ギャグにしか見えないシーンも「粋な演出」として楽しめていたはずなのだ。それどころか、画面のあちこちにちりばめられた粋なオマージュをもっと豊かに味わうことができただろう。というか、そういうふうに味わうことがこの映画の本質なんじゃないか。

『パターソン』では血みどろの事件や、憎しみのぶつけ合いは起こらない。一篇の詩として、画面に流れゆくよしなしごとを穏やかな気持ちで鑑賞しなければならない。私は残念ながら鑑賞者として脱落したが、5年後に見返せば「いい映画だ」と思えそうな気がちょっとする。

 

いやいやいやいや、やっぱりダメだ。5年後にはぜひ、妻と愛犬の死体が転がる血みどろの家の中に一人たたずむパターソンから始まる猟奇映画として続編を作ってほしい。お願いします、ジャームッシュ監督!

 

f:id:moving-too-much:20170923140555j:plain

 

 

 

保存

夕日が沈む海岸 — 9月の旅(6)

バリ島最後の一泊は、クタビーチへ。

見渡す限り延々と砂浜が続いて、本当に美しい。

夏の延長戦ということで、春先に買ったビキニを着て、ビールを飲んで、海の向こうに沈む名物のサンセットを眺めた。

朝は浜辺をジョギングした。砂がとても細かい砂浜は、潮が引くと海水で固く締まって、体重をかけても体が沈まない、とても快適なランニングロードになる。その表面はまるで毛皮のようになめらかで上品だ。

早朝の、まっさらでピカピカの朝の砂浜には、まだ海の家も売店も出店しておらず、表面に海水が薄く残った砂に朝日が反射すると美しく空を映して、まるで夢の中を走っているようだった。

備忘録として記憶のよすがにするために、美しい写真だけここに残し、書き残したことがたくさんある旅行記は一応、了。美しいものをたくさん見すぎて満腹になった1週間だった。

やっぱり、旅は定期的にするものだなあと、しみじみ。

 

f:id:moving-too-much:20170910201238j:plain

f:id:moving-too-much:20170910202203j:plain

f:id:moving-too-much:20170910202246j:plain

f:id:moving-too-much:20170911113901j:plain

f:id:moving-too-much:20170911194503j:plain

f:id:moving-too-much:20170911200042j:plain

f:id:moving-too-much:20170911203433j:plain

f:id:moving-too-much:20170911083555j:plain

f:id:moving-too-much:20170911062755j:plain

f:id:moving-too-much:20170911065506j:plain

f:id:moving-too-much:20170911062837j:plain

保存

保存