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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

オンリーワンでもナンバーワンでもなく

雑記

お昼に、凡庸な炭水化物を食べたくて三宮駅の周辺で適当にイタリアンもどきみたいな店に入った。

なかなか便利な場所で、以前はそれなりにがんばったおしゃれなイタリアンが入っていたのだけれど、その店が撤退し、それからいくつか店は変わっているのだろう。初代の内装がそのまま残っているからベースは悪くないのに、壁に100均テイストのデコシール的なものを貼っていたりする、ちょっとお寒い貧乏感が漂う店内は正直センスはよくない。
ランチは1000円ぐらいで、パスタとかメインの組み合わせでいくつかバリエーションがあり、ドリンクはセルフサービスのフリーで、パンもご自由に、という簡易オペレーションスタイル。一つひとつに個性はないけど、まちなかのランチ需要にマッチしているということでランチタイムはそこそこ賑わっている。店のたたずまいからしてもメニュー構成からしても、ハナから本格的とか独創的とかを期待させるような店じゃないし、パスタは量が少なくて選択肢も少ないけど凡庸においしい。コーヒーもおかわりできるし、ハコが広いから、賑わうといってもぎゅうぎゅうに混雑するわけではなく空席が適度にあるおかげで、昼時でも気を遣わずパソコン作業だってできる。特色のない店だから何回転もしないし、並んだりもしないけど、そこそこいろんな客層で賑わっててうまくバランスがとれてる感じだ。

コーヒーをお代わりして原稿の続きを書きながら、ああ、結局こういう立ち位置が一番幸せなんじゃないかと思ったりする。大衆に寄り添い、ちょっとダサめで、だからこそ誰も拒まない。期待以上の働きはしないし、感動も与えないけど、不満も抱かせない。オンリーワンでもナンバーワンでもない安心感と安定感。

おいしくて安くて個性がある店はそりゃあ魅力的だし、そこでしか食べられないものを高い値段で食べさせてくれる店も素敵だ。しかし、キャパを超えた人気が出てしまったら、迷惑なほど客が並んで周辺の交通整理のためにガードマンを雇わないといけなくなるといった本質的ではない部分にコストかけなきゃいけなくなったりするし、金払った以上は自分が上に立って文句をいう権利があると信じるおかしな客にこっぴどく怒鳴られたり、嫉妬した同業者にいやがらせで悪い噂流されたり、初期を知ってる客に「あの店も売れて変わってしまった」なんて、変わらねばいけない事情を無視して勝手なノスタルジーで失望されたり……と意図せぬ悪意を受けがちではないか。既存の資源をうまく流用して、まん中ぐらいのポジションで自足してひっそり生きていれば、そんな面倒なリスクに巻き込まれなくて済みそうじゃない。

実際に、人でも店でも、そうして環境にカムフラージュするように静かに生きる存在は想像以上に多いのだろう。目立たないだけで。凡庸な広い平面がなければ鋭いエッジが鋭く存在できるはずもない。平面は平面として安定してそこにただ広がっていればいいんじゃないの。ついつい無理に突出したがるゲスな欲望を捨てれば、そこには振れ幅の少ない等価交換を淡々と楽しむ幸せがあるのではないのか。

でもそれに明快にyesとも思えず、でもなあ、でもなあ、と思考がぐるぐるするあたり、多分疲れてるだけだけど、あたし。

 

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深夜のひとりごと

雑記

自分の体を差し出すことで誰かが喜ぶならどうぞと差し出したい思いは常にあるのだけど、そういう受け身かつビッチな感性については、自分でいいとは全然思っていない。それにともなうトラウマもあって、だいたい自分のことは(人の利害が絡まない限り)なんでもあほみたいに人に話してしまう方だと思うのだけど、この劣等感に関するトラウマはちょっと人には話せないし、墓まで持っていく所存だ。私の行く末に墓があるのかどうかしらんけど。そのトラウマは、その体験そのものが傷になっているのでなく、「それを重く受け止めていない自分」に対する傷なのだ。トラウマのきっかけを作った他者に対して腹が立つとか許せないという思いがない、そういう自分のダメさやあほさに対する傷。

自分の中にある正義感を根拠にして人を断罪したり、強く何かを否定したり、他人の不埒な欲望を嫌悪したり……といった芯のあるビシバシした行動をとりたいという憧れがありながらも、自分にある不埒な欲望の存在を知っている以上、なにもかもを「そういうこともある」とぼんやりと(受け身に)肯定してしまう。

自分はとにかくどう転んでも受け身で、どこかからかやってくる刺激にただ反応し続けているにすぎない。他人に消費されるしか生きる道がないから、消費されることに対して怒れないし、それがなくなれば自分の存在価値もなくなる以上、私を消費しようと考える他者は私の命綱なのだ。みずから何かを求めることができればかっこいいのだけど、そういう性向は直せない。だからそれでもいいじゃない、と決して強くではなく、弱く、受け身に、そう考えている。

 

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冷たい空気のなか、芝生を踏んで走る

ランニング 出張 雑記

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出張でつくば泊、というとみんな「あー」みたいな感じで「なにもないよー」という。前も大学の取材で来たことあるけど、このときは日帰りだったかな。でも今回か朝から夕方まで3件インタビューの予定が入っているということで前乗りを指示されたのだ。


東京泊にして東京から他のスタッフと車でつくば入りという選択肢もあったんだけど、朝から楽しくもない車移動するのもいやなので、私だけ前夜につくばに入ることにした。ホテルも安いし、空いてるし。出張のたびに温泉通の人に「どっか温泉ないですかね」と訊ねるのが通例なのだけど、今回は「筑波山に温泉があって一回泊まったことあるけど、そのときは自分以外だれも宿泊客がいなかった」と聞いて、うーんと思い、普通にビジホにした。でも駅前にダイワロイネットがあったからよかった。いいね、ダイワロイネット。ベッド広いし、部屋で炊くアロマオイルまでくれたわ。



しかし、ホテルの部屋に入ったら、テレビ画面に「つくばにようこそ」って、ロケットみたいな変なものが映ってるし、朝カーテンを開けたらやっぱりロケットみたいなものが屹立しているし「ぎょえーなんなのこのまち、男根主義!」と思わず独り言を言いながらも(いわざるをえない光景やん、科学至上主義的な雰囲気って男根主義っぽいしな)、朝、余裕のあるときは出張先でジョギングをすることにしていたし、今回もシューズ持参だったので、その奇妙な光景の中にランニングウェアで出ていくことにした。そして冷たい空気の中を走ったら、つくばが結構好きになった。

 

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郊外の学研都市らしく駅前にいきなり広い公園があるから部外者でものんびり走りやすい。出張ラン用に持ってくるシューズににはいつも軽くて薄いベアフット系を選ぶので、足に負担がかかりにくい芝生がたくさんあるの、とてもいい。池を眺めながら芝生を踏む。池に映り込む木々の葉はもう色づいている。

 

 

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公園の木々に隠れるように古い団地のようなものもある。古びた建物だ。しかし森に覆われていることで、ただもの悲しい古い建物というわけではない魅力のある風景の一部になっていた。新しいまちは必ず古びるけれど、そのとき、建物と同時に植樹された周囲の木々が森のように鬱蒼と育っていたら、まちの景観は新しいときよりも確実に美しくなっている。緑の力は偉大なのだ。大きな木々が育っているまちは、それだけでも長く人が暮らした証だし、特になんの変哲もないコンクリートの箱形の建物が一様に古びることによって減少するまちのエネルギーを補完して余りある。木が育っているまちは無条件にいいまちだ。

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だだっぴろい芝生を見ながら走っていると、ずいぶんむかし、大学時代にオーストラリアにホームステイした時の朝の空気を思い出した。日本の9月はオーストラリアの冬で、といっても昼間は半袖で過ごせる暑さだったけど、さすがに朝晩は冷えた。ホストマザーが仕事の前に車で学校まで送ってくれるのはいいのだけど、それが始業時間より随分早かったから、私はいつも学校の近くの公園で、他の日本人が到着するまでの間の時間をつぶした。大学生のあたしにジョギングなんてヘルシーな習慣はなかったので、その旅のために当時の彼氏が編集してくれたテープをウオークマンで繰り返し繰り返し聞いた。誰も歩いていない朝の公園の芝生はきれいで、いつもカラスがいた。空気はひんやり冷たくて、わたしは見渡す限りひとりで、耳の中ではロクセットが「あれは愛だった、でももう終わってしまった」と歌っていた。

 

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なんにせよ、知らないまちを走るのはいい。ランニングを始めたメリットはいろいろあるが、その中の重要なひとつは、そこをただ走ることで、しらないまちを親しく感じられたり、好きになったりする契機になることだ。走って嫌いになるまちはない。今のところは。


死を抱く生。北品川の原美術館

展覧会 写真

東京出張で仕事が早く終わり、品川から新幹線に乗る前に、駅から歩いて15分ほどのところにある「原美術館」に寄った。現代美術の専門美術館。初めて。

品川区北品川。まちの向こうに林立する高層ビルを望みつつも、バス道を一本入ればそこは閑静で住宅街で、星霜を経た……といえば大げさかもしれないけれど、ある程度の厚みを持つ時間の洗礼を受けた住宅街だけが持つ、何世代かにわたる人々の細々とした生活の記憶の層と、それに張りついたぬぐいがたい陰のようなものが沈殿した空気が充満しているのを感じる。



通りの両サイドに建ち並ぶ住宅のエントランスのどこか懐かしい意匠、植栽、ガレージに並んでこちらをにらむ車、などをぼんやり眺めながら歩いていると、左手に長い白壁が現れる。もとは1938年竣工の私邸だったというのだれど、たいへん贅沢なものである。設計は東京国立美術館本館や銀座の和光を手がけた渡辺仁。

 

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(公式サイト)→ Hara Museum Web


現在の特別展は篠山紀信の「快楽の館」である。
いわずとしれたヌードの巨匠、篠山紀信氏の原美術館だけで開催される写真展で、展示されている写真はすべて原美術館の敷地内で撮影されたもの。ヌード写真が中心で、30人以上のモデルを使ったのだとか。壇蜜もいれば、ロリ系、いわゆるグラビア系、スポーツ系、舞踏系、はたまた武闘系(?)、筋肉のつき方も表情もポーズもさまざまなヌードの女たちの姿が百花繚乱の様相で各展示室を彩る。期待していたよりもすごく面白かった。

(展示詳細)→ http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/IoXcFNSpLejTadmKb86i/



受付で受け取った案内には、こんな言葉が掲げられている。
篠山紀信ってこんなおしゃれな文章を書きはる人なんですね。

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美術館は作品の死体置き場、
死臭充満する館に日々裸の美女が集う。

美女たちの乱舞、徘徊、錯乱、歓喜、狂乱、耽溺……
あらゆる快楽がこの館でくりひろげられる。

幻蝶が舞う夢と陶酔の館。
この祝祭は初秋の夜にはじまり、歳明け、厳冬の朝に散る。

たった4ヶ月余の一度だけの狂宴。

お見逃し無く。
2016年   篠山紀信

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写真展示もさることながら、建物がものすごくいい。


美術館にするにあたってどれほどの改造が施されたのかは分からないけど、なまめかしい曲線を多用したデザインは、ときに展示されている写真よりもエロティックで、なんなら館全体が寝ている獣のようなのだ。階段をのぼり、くだり、廊下を奥へ進み、窓から庭を眺め、そうしていることがまるで獣の腹の中を歩いているかのようで、ふと足元の床が脈動している錯覚に襲われる。その現場で撮った写真を、まさにその現場に飾る展示とあって、こうしてみると篠山氏のいうように、展示されている作品が「確かに死んでいる」ことが際立つ。そして、建物だけが生きている。美しい亡骸を抱えて。

半円形に張り出したサンルームの大きな窓枠には、美しくアールのかかったぽってりとしたガラスが嵌められ、古いピアノが日だまりにたたずんでいる。物見櫓のような屋根裏の小スペースに上がる階段は、毛の水滴をふるう猛禽の背中のような不思議な曲線を描く。館の中には特別展の作品以外にも、奈良美智森村泰昌、ジャン=ピエール レイノーなどの常設作品は、展示スペースと一体化したかたちで展示されていて、これらもよい雰囲気。

館内は写真撮影禁止につき、庭の写真をいくつか。庭にも「そこで撮影した」紀信氏の作品が展示されている。

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半円形の建物に過去かこまれた中庭に面してカフェもあり、このテラスも素敵だったが、こちらも残念ながら撮影禁止であった。

ちょっとした時空の歪みを体験できるとてもいい場所だなあと。また寄りたい。

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10月に思ったりしたこと

雑記 映画

視覚を間接的に得る

障害者スポーツを体験できるイベント「ノーマライゼーションスポーツ大会」に娘と一緒に参加した。アイマスクをつけて鈴の入ったサッカーボールでシュートしたり、レース用の車いすで100mを駆けたり、いずれも楽しい体験だったが、出色は、アイマスクを装着して伴走者と手と手をひもで結わえてトラックを走る「伴走ラン」であった。自分はマラソンをやっているので、「視覚障害者」のゼッケンをつけて「伴走者」とともに走るランナーの姿を何度も見たことがあるが、他のランナー靴音だけが響く道を、視界なしで走り続けるのはものすごく不安だろうと想像していたのだが、その想像はまったく裏切られた。そこには安心感と安らぎが満ちていたのだ。もちろん私が走ったのはわずか数百mで、それだけで何かがわかるはずなどない。しかし、想像していたのと全く異なる感覚にものすごく驚いた。間接的に視覚を得ている感じ。目の前は暗いのに、見えている感じ。


伊藤比呂美の『閉経期』を読む。

出典は婦人公論の連載エッセイ「漢(おんな)である」。40代後半からの、いわゆる更年期の猛々しくパワフルな女たちを漢(おんな)と呼ばわり、その実感を語るものだ。加齢により膣は乾くだけではなく閉じるのだそうだ。というような「うへー」というような話に始まり、陰毛の白髪、脂肪の増加、自分の顔相に二重写しになる母や祖母の影……といった加齢にまつわる、どちらかというと、というか普通にネガティブなエピソードのあれこれを明るくバサバサバサと語り、その語り口は逆説的にファンタジーの様相を帯びる。若いころは加齢とともに人生というのは堅牢に積み重なっていくのかと思っていたが、自分が40代も半ばになって感じるのは、どんどん人生がファンタジーになっていく感覚だ。未来の減少に比例して、動きは鈍くなるのに、存在が軽く、軽くなっていく。


イージーライダーを見る。

アメリカンニューシネマの傑作といわれる本作を初めて見た。共感できないというか、話の流れも登場人物の行動も全く予測することができず、もちろん理解もできず、最初から最後まで観客として「どこにも寄り添うことができない」他者の映画。でもそれが不快なわけではない。目的が曖昧なまま、背景だけが動いていき、音楽が流れる。LSDが色づけたサイケな世界、あまりに日常と地続きの排他的圧力と暴力。また、それに対比されるヒッピー村の退屈。厳しい村落社会もいやだが、楽しい協働、ラブ&ピースの行く末だって退廃と分裂だけではないか。よそ者をテコでも受け入れない圧力の先の同質性も、無秩序に外部を招き入れた上でのゆるい同質性も、どっちもぞっとしない。世界はそのレイヤーを突き抜けたのか、突き抜けていないのか。



黒柳徹子という奇跡『レティスとラベッジ』

舞台

もうね、最高!!

黒柳徹子さんはずっと好きだったのに、舞台は観たことなかった。「海外コメディシリーズ」の主演を長く続けていることは知ってたのに「女優・黒柳徹子」にあんまり興味がなかったのだ。でも大好きな麻実れいさんと共演される舞台の情報がツイッターで流れてきて、大阪のシアタードラマシティにも巡回されるということで、衝動的にチケットを確保した。ああ、今観といて、本当によかった!

今回の『レティスとラベッジ』は、1989年から27年間も黒柳徹子さんのライフワークとして続けてらっしゃる「海外コメディシリーズ」の第30弾記念公演。しかも、記念すべき第1作の再再演なのだそうだ。私は知らなかったけれど。原作者は、モーツァルトサリエリの確執を描いた名作映画『アマデウス』の脚本を書いたピーター・シェーファー黒柳徹子の初演のパートナーは山岡久乃で、再演のパートナーは高畑淳子、なんですって。

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「私のことを想定しながら書いたみたい」とご本人もおっしゃるほどの主人公レティス・ドゥーフェと黒柳さん本人のシンクロ具合も素晴らしければ、軽妙に笑いを誘いつつ、巧みに人生を織り込んだ脚本も素晴らしかったのだけど、もう、そんな何もかもを凌駕する黒柳徹子さんの存在感が奇跡的すぎてね……。幕が開いて、黒柳さんが舞台に姿を現したとたん、意味も分からず涙が出てきた。その姿を見ただけで涙が出てきたのは、生まれてこのかた詩人の伊藤比呂美さん黒柳徹子さんだけ。芝居自体も面白いから、めっちゃ笑うし、笑いの合間には圧倒的な存在感に当てられて涙が勝手に出てくる。もう心が震えすぎ、エクスタシーの連続でくたくたよ!

黒柳徹子さん御年83歳。さすがに滑舌も悪くなっているし、舞台を縦横無尽に走り回るというわけにはいかない。でもそれが些末事と思えるぐらい、ものすごくいい。

徹子さんが演じるのは、ロンドンの歴史的建造物のガイドのレティス。歴史を愛し、美しい文化を愛するレティスは、とある古い貴族の邸宅のガイドを担当するが、見物客を退屈させずにおかないその邸宅の貧相な歴史に辟易し、やがてオリジナルの脚本で盛大に「盛った」話を披露するようになる。その虚飾は一部の観客に熱烈に愛される一方で、歴史的事実の正確性に重きを置く観客や、市の歴史保存委員会には異端として疎まれる。しかし、そのレティスをガイド職から排除したガチガチの歴史保存委員会の職員、ロッテ(麻実れい)との間に、思いがけず友情が育っていく。

レティスは自由奔放に生きているように見えながらも自分の美意識と過去に縛られており、ロッテは現実に縛られているように見えながらも内部に現実を打破するエネルギーを貯めている。一般的には人生の選択を終えたような年齢に達した大人の女性であるそんなふたりが出会い、化学変化を起こすことで、どのように互いを肯定し、どのように新しい道を拓いていくのか。「事実の残した空白を想像で埋める」。そんなメッセージが持つ豊穣は、観客を温かく豊かな気持ちで満たさずにおかない。

カーテンコールの頃には私も泣きすぎても完全にダメな顔になってたんですが、喜劇でここまで泣いてる人他にいるだろうかと恥ずかしがりつつ周囲を見渡すと、よかった。結構いました。ボロボロに泣いている人。「そやんなー! 泣くよなー!!」と見ず知らずの彼女たちに共感のエールを飛ばして会場を後にしました。とてもよい時間でした。

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美は権力 『男と女』

映画

[監督]クロード・ルルーシュ [脚本]クロード・ルルーシュ、ピエール・ユイッテルヘーベン [音楽]フランシス・レイ [出演]アヌ—ク・エーメ、ジャン=ルイ・トランティニャンピエール・バルー、バレリー・ラグランジ
1966年・フランス 104分

こちらの映画の会でも語らせていただいた、個人的に思い入れのある映画『男と女』が、デジタルリマスター版で50年ぶりに劇場公開されるという夢のようなお話を聞いたのは昨年ことだったでしょうか。わくわくしながら公開3日目のシネ・リーブル神戸へ行って参りました。

 

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パリの街中をF1ドライバーが交通ルールを無視してひたすら爆走する映像だけの短編映画『ランデヴー』も同時上映ということで、こちらも楽しみではありませんか。交通ルールを無視しまくりの危険運転映像だけで構成された非常識な作品だけに、公開直後にお蔵入りになり、監督もこの件で逮捕されたというのですから、まあ、なんて素敵なんでしょ。さすが自分のフェチには一切の妥協を許さないルルーシュ監督だわ。

otokotoonna2016.com


劇場に入ると、7割ぐらいの入りかな? その半分ぐらいがかなりお年を召した女性、ということで、青春期にこの映画を観た方々なのでしょうね。その雰囲気だけで「おお〜!」と盛り上がりました。

というわけで、初めてスクリーンで見た『男と女』。やっぱりとっても面白かった。映像の美しさも堪能できるし。パリの街並み、ドーヴィルの海辺、雨のドライブ……。どれも素晴らしかったわあ。

そして集中して見たおかげで、男と女のディスコミュニケーションの妙についてじっくり考えをめぐらすこともできました。とても楽しい! 以下、ネタバレとともにお話を振り返ります。

                ★★★★★★

ストーリーは極めて単純です。寄宿舎付きの学校にそれぞれの子どもを通わせている女と男が出会い、惹かれ合う……というそれだけのもの。男も女も互いに配偶者と過去に死別しており、男はレーサー、女は映画関係の何かよく分からん仕事をしている超美人である。ある日、娘に会うために海辺の街・ドーヴィルを訪ねていた女は、帰りの列車に乗り遅れてしまい、男に送ってもらうことになる。これをきっかけに2人は距離を縮めてゆき……。

ふたりが会話を交わすのは主に男が運転する車の中です。説明的な会話はあまりありませんが、それぞれの事情については適宜回想シーンの映像が挿入され、それぞれがパートナーを失った経験があることが明かされます。男目線で進む映画につき、男についてのみ時折「心の声」もナレーションされます。しかし、男が女に惹かれる理由は「女がめちゃくちゃ美人だから」というだけ。そんな男を女は最初は警戒します。そりゃ、するよな。が、男の自信ありげなそぶり、スマートな立ち居振る舞い、頼れそうな感じに徐々にほだされ、なんと、自分から愛を告白してしまうのです! なんかしらん、ぽーっとなってもうたんやろな……という感じ。途中、男は過酷な山道を走るカーレース「モンテカルロラリー」なんかに出場したりするので、心配したり応援したりしているうちにアドレナリンが出ちゃったんでしょう。「あら私ったら、また彼のこと考えてる。恋かも……」なんてね。

告白された男は大喜びで、レース会場からすぐさま彼女に会いに行こうとします。「あんな美人に愛されてるっていわれちゃったぜ!」「会ったら第一声、なんていえばかっこいいかなー」「おっと、無精ひげ剃っとこ」「めっちゃ俺に会いたいって思ってるんやろなー、待ってろよ〜♡」みたいな、あからさまなうきうきわくわくっぷりに失笑を禁じ得ない。実はこの男にもつきあってる彼女がいるのですが、もう古い彼女なんてどーでもいい。葛藤も罪悪感もゼロです。

そんな最高の盛り上がりの中、ドーヴィルの美しい海岸でやっとこさ再会できたふたりは、感極まって砂浜で抱き合ってくるくる回ります。わあ〜楽しそうですね〜。で、子どもを寄宿舎に戻したら、待ちに待ってた大人の時間。さっそくホテルの部屋をとって熱い抱擁を交わす。が、女は男からの愛撫を受けながら、死んだ夫との思い出が脳裏に浮かんでくるのを止められません。子どもみたいに無邪気にころげあって遊んだこと、時を忘れて愛を語ったこと、同じチームで映画をつくったこと(女の元夫はスタントマンだったのです)……。どの思い出も美しすぎる。ああ、やはりあれこそ私の真実の愛の日々ではなかったか。そう思った女は目の前の男から体を離し、1人でパリに戻ると言い出すのです。

まあ〜〜、勝手な女! っていう感じですが、たぶんセックスもよくなかったのでしょう。こういう手前勝手な男はたいてい触り方が無骨です。女を触ることを車を運転するようなテクニカルなものと同じだと思っているのでしょう。違いますからね。

男の魅力を表現するシーンでは、彼の周囲にひたすら耳を聾するエンジン音が響いています。しかし、回想シーンの中の女の夫はもっとナチュラルで温かみにあふれています。エンジン音を響かせる車ではなく、たてがみが風になびく馬に乗っている。カーレースの喧噪ではなく、哀愁とおかしみの同居するサンバを愛している。そしてお気に入りの曲の歌詞を引いてこんなことを妻に言います。「悲しみのないサンバは、美しいだけの女と同じだ。僕はそんなものはいらない」と。つまりこの夫は、妻の美しさだけを愛していたわけではないのです。今の男はレースという自分の世界を持ちつつ、その人生をより豊かに輝かせるオプションとして女を愛してるが、元夫は、自分の世界観を構成する一部として女を愛していた。

夫への断ち切れぬ思いを言葉短く伝えて去る女。

死んだ夫が相手となれば、さすがのオレ様も反論しにくい。女の背中を見送りながら、男の胸にはさまざまな思いが去来します。といっても、その思いはとても浅い。「夫って結局変わり者の変な奴やんけ(ライバルサゲ↓)」「自分から好きってゆってきて、その態度ないんちゃうん(相手の非難↓)」「俺どこで失敗したん(ちょっとした自省→)」「いや、結構スマートやったと思うねんけど(自己肯定↑)」「どう考えても、めっちゃええ感じやったやん、部屋に入るまでは……(さらなる自己肯定↑)」「あんなええ女に釣り合う男、俺ぐらいしかおらんやろ(自信↑)」など、ひたすら自分の周りをぐるぐるぐるぐるしながら、結局自信を取り戻し、やっぱ迎えにいーこう! と、ポジティブに考え直してパリの駅に出向きます。

一方、ひとりになった女も列車の中で男のことを思い出しています。あの男は自分に惚れている。その行動は確かに誠実だった。いつも私を求め、私のペースを守り、必要に応じてリードしてくれた……なんて思ってたかどうかは知りませんが。まあ、なにがしかの心境の変化があり、結果、ラストシーンで駅に迎えにきた男を見つけ、固く抱き合ってエンドロールとなります。よかったね〜。

でも、こんなカップル、この先うまく行くとは思えないじゃないですか。絶対別れるやつですよね。男は徹頭徹尾、女の美しさしか見ていず、本当に好きなのは自分。結局、女を迎えに行ってうまくいくのも、モテ男ならではの経験則で「どれぐらい押せばうまくいくか」が体で分かっているがゆえの適正行動が取れているからにすぎない。

では、なぜ女は一時的とはいえそれを受け入れるのか。私には「権力の目覚め」に見えましたね。つい先日読んだばかりの中村うさぎの『死からの生還』。その中に書かれていた「美は権力である」という一節が頭に浮かんだまま離れません。

「美には無条件で人をひれ伏させる力がある」
「美は人間が平等であるという幻想すら木端微塵に蹴散らかす。美は権力であり、暴力でもあるのだ」

女が美しくなければ、ドーヴィルからパリへ送ってもらった、その片道で物語は終わったでしょう。「ご親切に」「どういたしまして」と。しかし女の尋常ならざる美は権力を発動し、自信家のモテ男をたやすく操る力になった。過酷なレース明けでくたくたのレーサーを、一夜にしてフランス国土を南から北へざっと2500kmもの距離を縦断させるんですからすごいもんですよ。これまで「美人」としてではなく「愛し愛される者」として生きてきた彼女が、自分が思い通りに操れるこの男が、今後の自分の人生のオプションにふさわしいと考えたとしてもおかしくはない。男の献身が美しい女の権力をめざめさせた、そんな物語に見えました。ほどなく女はこの男と別れ、さまざまな男で自分の権力を試すでしょう。
ダバダバダ、ダバダバダ……答えは風に吹かれている。と、無理矢理に旬のボブディランを持ち出して締めることにします。

 

                ★★★★★


しかし、一見整合性のとれていないこのラブストーリーを、会場の女性たちはどう見ていたのでしょうか。すごく興味があったんですが、うまく感想トークを拾う(=盗み聞きする)ことができませんでした。
映像は文句なくおしゃれで美しく、音楽も素晴らしい。もちろん、それだけでもたっぷり楽しめる映画です。

個人的に面白いなーと思ったのが、劇中で主演の2人に「俳優なんて仕事は簡単でしょう」「映画は監督のものだから」とか言わせているところ。あれ、なんなんやろ(笑)。


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