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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

グロテスクで愛おしい郊外小説『ふがいない僕は空を見た』

以前「GingerL」でたまたま読んだ短編『水曜の夜のサバラン』が大変面白くて、ずっと気になっていたのに読んでいなかった窪美澄さん。初めて単行本を読む。いやー大変面白かったですね。


視点人物を変えて綴られる5編の連作小説。私は相互に関連のない短編集だと思って読み始め、冒頭の「ミクマリ」がものすごく面白くて唸ったのだが、これがデビュー作とは。2編目の「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」の途中で「あ、連作か」と気づいてものすごく引き込まれたけれど、お話がハードで読んでいて辛く、途中で何度も休憩を入れなければ読み進めることができなかった。世の中から疎外され、疎外がスタンダードになっているがゆえに感情の閾値が異常に高い人の話。


1、2編は生々しい手触りが生々しすぎる異様さが際立っていて読者の(つか、あたしの)心を削るが、3編目以降はいわゆる小説世界の地平線が広がり、読者として作品に対峙する視点も定まり、この世界への向き合い方が安定してきてほっと一息つきつつ一気に読む。登場人物にいちいち体温や体臭や地声や肌質の違いを感じてしまうほどの固有の存在感があり、人々を枠に押し込めて分断するあらゆるタイプ分けを強烈に拒んでいるところが素晴らしい。だれもがどこかグロテスクで、何かを嫌ったり憎んだりしながらみっともないことをせずにいられないのに、弱くて強くて可愛らしいのが素晴らしい。


そして、過激な、というよりものすごく具体性に富んだ性描写、というのが本書の、そして著者の大きな特徴なのだけど、あくまでゲスくなく知的。形而下的に知的。男性は実用書として読んでいただいたらどうでしょうかね。健全に普通に性欲を持つ女子高生が出てくるところもさすがだと思う。

ところで、最後の「花粉・受粉」に出てくる助産院の助手のみっちゃんは、「東京タラレバ娘」のマミちゃんみたいやな。この子視点の話も読みたいわ。でも七菜ちゃんのお母さんの話も読みたいし、あくつちゃんの話も読みたいし、あんずちゃんのご近所の木村さんの話も読みたい。全部絶対に面白いはずや。郊外的な、たいへんに郊外的ないろいろなものがふきだまっているこの世界観がものすごく切なくて愛おしい。傑作です。

 

 

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

 

 

こどものころの自分

「あんた、小学校3年生ぐらいのときに、男の子の格好ばっかりしとったことあったよねえ」


と、年越しの帰省で母に言われた。

うちは姉と私の二人姉妹なのだが、私が生まれるときに父には男児を期待する気持ちがあったらしく、それを聞いて「じゃああたしが男の子になったげる!」と張り切って男の子の真似をするようになったのだそうだ。全く覚えていないのでちょっとびっくりした。小学生時代の自分といえば、おとなしく教室のすみに縮こまってる真面目で引っ込み思案のイメージしかなかったので、そういうお茶目なエピソードがあるというのが意外だ。しかし言われてみれば、野球もしないのに近鉄バファローズの野球帽をよくかぶってた記憶はぼんやりとある。近鉄の帽子をかぶった引っ込み思案の女の子、というのも考えれてみればなかなか妙な図なのだが、実際のところはどうだったんだろうか。どっかで記憶が曲がっているのかな。

自分ではっきり覚えてるアホっぽいエピソードもあるにはある。
小6のときのことだと思うのだけど、母親に可愛いパジャマを買ってもらって、私はそれをいたく気に入った。オレンジのギンガムチェックにセーラーカラーふうのデザイン。なみなみのパイピングテープが襟のところにあしらわれていたのも萌えポイントだった。ちょうどマリンルックが流行っていたころで、もともと大好きなギンガムチェックやレースに、大きな襟というトレンドモチーフが加えられていたところが最強だと思った。見れば見るほど可愛いデザインだし、見れば見るほど寝る時にしか着ないのはもったいないように思われたので、私はそのパジャマの上をブラウスとして着用して英語の塾に行ってみたのだ。塾についた瞬間、友達に「すっごいパジャマみたいな服だね」と言われて、いわれてみればもうどこから見てもパジャマにしか見えなかったので、すごく恥ずかしかった。そのとき初めて私はパジャマと服の違いを悟った。それ以降、どんなに可愛いと思っててもパジャマでは外出していない。

もっと小さいときなら、ホクロをちぎりとったのが一番アホな思い出かもしれない。
私は左の口の下にぷっくり膨らんだホクロがあるのだけど、それが小さい頃は嫌いで嫌いで仕方なかった。姉は笑うとエクボができる人だったので「お姉ちゃんはエクボ、○○ちゃんはホクロがチャームポイントやねえ」なんて近所の人に言われたりするのがもうめちゃくちゃ嫌で、エクボはともかく、黒々しいシミみたいなものがチャームポイントなものか! と腹を立て、母の三面鏡の前に長い間陣取ってホクロをいじり倒した挙げ句、周りの皮膚よりもふくらんでいるそれをちぎり取ってやったのだ。手は血まみれになり、ちぎりとられた皮膚のまわりはじんじんと痛く、母にはぎゃーっと叫ばれたが、私は生まれ変わったような満足感でいっぱいであった。翌日、ホクロの跡にかさぶたができた。数日後にそのかさぶたがはがれると、その下から、果たして! フレッシュなホクロが顔を出したときの私の絶望感が想像できるだろうか。そのとき私は、ホクロは実存ではなく現象であることを学んだ。ゆくホクロは絶えずして、しかももとのホクロにあらず。そのホクロも今ではまあまあ気に入ってるんだけど。

年末年始っていうのは、小さなころの自分を思い出したり、思い出されたりするような時間であるよのお。でも自分もよく覚えてないし、親にしたところで記憶が正しいかどうか怪しいものだけど、たまにそうやって罪のない記憶を振り返るのも悪くない。私も娘が大きくなったとき、正月の食卓で、本人が忘れているような些末な思い出をたくさん語れるように、今のうちにあれこれ覚えておいてネタ繰っとこう、と思ったりする2017年。


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この世界に本当に居場所はあるのか『この世界の片隅に』

2016年11月の公開以来、観に行こうと思いながら行けていなかった『この世界の片隅に』を、すっかり暮も押し迫った12月29日にやっと観に行った。事前に予約していたからよかったものの、18時すぎの回のシネリーブル梅田は満席だった。すごいね。

 

私は涙もろい……というより、涙腺がふしだらといっていいレベルにゆるくて、きれいな風景とBGMの組み合わせぐらいの刺激で割と簡単に涙を流してしまう人間なので、私が泣くことの意味は相当に軽いのだけど、それにしたって、映画館で照明がついた後もしばらく立てないレベルまで号泣したのは、考えてみれば『かぐや姫の物語』以来なのであった。

 

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戦中に生きたヒロイン・すずをめぐるこの物語は、冒頭に幼少期のエピソードが盛り込まれてはいるものの、その主軸は、彼女が広島から呉へと嫁入りした昭和18年12月から太平洋戦争終戦(昭和20年8月)までのわずか1年半あまりの出来事にすぎない。しかし、その背景には、刻々と移る戦局があり、戦前・戦中の風俗とその変遷があり、瀬戸内の自然や地域文化があり……といったさまざまな情報が盛り込まれている。風景描写を一瞥するだけで、海や空をそのように描くために歴史や自然にまつわる膨大な考証を経たことがすぐに分かるほどにその表現は濃密だ。が、それらの意味を視覚表現だけで了解できるほどこちらには予備知識がなく、加えて音声情報は登場人物が広島弁で語る台詞だけとあって、提示された意味を100%拾うのは難しい。もちろん、情報をすべて読み取れないことが映画を鑑賞する妨げにはなるわけではなく、むしろ拾いきれないほどの「情報の厚み」があるという事実が心を揺さぶる。一般的にアニメというのは情報を単純化して主題を強調するのに適した表現形式だと思うのだが、画面の隅から隅まで作り手が創造する必要があるそのアニメという形式をとりながら、読み取れないほどの情報を画面に横溢させたことに、作り手の「物語ではなく現実の断面を見せよう」という意志がにじむ。些末事の集積としての「現実」を。
冒頭3分で、何かよく分からないけどもう泣けてしまってそれが止まらない、というのは、そこに描かれている主題に共感したとか、感動したとかではなく、「アニメという形式で現実を表現しよう」という迫力に打たれたから、というのが正直なところで、そのあと2時間にわたってあほみたいに泣きつつづけたのはもう、それら描かれた現実のあれこれが末梢的に私の神経を刺激するからなのであった。

とはいえ、この映画がそうした事実や出来事の積み重ねによって現実の断面を表現し得ている一方で、まったく現実を描写していない点もある。この映画に描かれた世界はあくまで、ヒロインすずさんの、妄想を含んだ主観としての現実でしかないからだ。

その表れとして、しばしばリアルな風景描写が、すずさんの描いた絵のタッチに変わる。現実は、ときに美しく色彩に富んだ水彩描写となり、ときに左手で描いた歪んだクロッキーになる。すずさんが意識をなくすと、暗闇に光がぱちぱちと弾け、時間が錯綜する。その間、すずさんのいない世界がどのような姿をしているのか、観客は知りようがない。すずさんを取り巻く登場人物のすべては、基本的に悪意のないいい人ばかりだが、これもすずさんという「ぼーっとした」パーソナリティーが生み出した妄想・主観にすぎない。観客は、素晴らしくよくできたこの映画を通して、すずさんという特異な個性を通した特殊な世界を追体験できる。だからこそ、スクリーンに向き合う2時間は、辛い出来事にくるまれてなお、ほの温かい。しかし、実はこの映画の外の現実は、もっともっとグロテスクで、えげつなく、辛く、厳しく、理不尽なことがたくさんあることも同時に感じざるを得ないわけで、そこにも泣く。泣かざるを得ないでしょう。それはね。私が見ている現実では、いつも波頭にウサギが跳ねているわけでなく、きれいな女の人の吐息から花がふわふわ飛んでくるわけでもないのだから。もちろん、すずさんの世界の中にも、小さな悪意が瞬くことがあるし、本人が自覚していない大きなストレスもほのめく。しかしその悪意やストレスは人を傷つけないし、すずさん自身が前を向いて生きていくことを妨げない。

すずさんの生き方は、辛い現実に向き合うときのひとつ態度のあり方を教えてくれる。まず、与えられた状況がなんであれ受け入れること。言葉を言葉通りに受け取って、裏を読まないこと。
しかし、それは誰にでもできることではない。いや、すずさんだって完全にそれに成功しているわけではなく、そこにこの映画の一番の痛みがあるわけですけども。しかし、ここにきて私は、同じように私の号泣を誘ったかぐや姫のことを考えざるを得ないのだ。

すずさんは、気の強い義姉から「周りの言いなりに知らん家へヨメに来て、言いなりに働いて、あんたの人生はさぞやつまらんじゃろと思うわ」と同情されるほど、周囲に流され生きているが、彼女自身はその流されゆく現実を、いつか覚める夢のようなものと捉えており、選ばなかった無数の「あり得たかもしれない人生」と目の前の現実をそれほど差別化していない。突然求婚してきた見知らぬ男を「いやなら断わりゃええ言われても……いやかどうかもわからん人じゃったねえ…」と、判断を留保して受け入れる。その美しさゆえに位の高い求婚者がひきもきらず、しかし誰にも納得せず無理難題をふっかけて周囲も自分も不幸にしたかぐや姫とは対照的だ。

しかし、並外れた美しさがなかったら、かぐや姫だって、すずさんのように生きられたはずなのだ。自分に値段をつけない、自分を貨幣にしない、という素朴さ、純朴さはこの2人の女に共通した美質なのに、かぐや姫はその美しさゆえに周囲に勝手に値付けされ、それを喜ばないからという理由で世界から憎まれ、その居場所を失った。かぐや姫の罪は、自分の価値を低く見積もりすぎたことだ。無理難題をふっかければ、自分のような女のことなど誰もが見限るだろうと思いきや、女の美しさを権力と紐付けずにいられない男たちが、かえってその価値を高騰させていった。しかしその高騰を彼女は頑として利用しようとしない。地位と権力にしか価値を見いださない男から見て、これほどたちの悪いビッチはいない。すずさんのようにメジャーな通貨となりうる資質を持たずに生まれていれば、世界の片隅に居場所を見つける道があったのに。

感想をうまく書けない映画なのに、うだうだと視野の狭すぎる感想を書いてしまいました。まあ、そんなとこです。2回目はしばらく見ることができないな。表現に力がありすぎて、すごく消耗してしまうから。

というわけで、映画を観た後、こうの史代さんの原作漫画を読んだ。漫画はまだしも冷静に読めるし、情報を反芻できる。そして改めて漫画としての情報の詰め込み方に感動しつつ、その漫画の世界観がそのまま映画に美しく移植されていることにも唸った。

とかいいながら、漫画には映画では割愛されていた周作さんの恋のエピソードがあって、周作さんのイメージがちょっと変わったので、最後にしょうもないけど、これだけはいっときたい……。周作さん、遊女に恋して純愛を貫こうとがんばった挙げ句、周囲の反対でその恋が破れるや、幼少時代の淡い初恋の相手を執念深く探し当てて求婚するってさ……。いくらなんでも童貞マインドほとばしらせすぎやろ!! あ、こういう人好きですけどね。おわり。

 

 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 
この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

 
この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

 

 

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オンリーワンでもナンバーワンでもなく

お昼に、凡庸な炭水化物を食べたくて三宮駅の周辺で適当にイタリアンもどきみたいな店に入った。

なかなか便利な場所で、以前はそれなりにがんばったおしゃれなイタリアンが入っていたのだけれど、その店が撤退し、それからいくつか店は変わっているのだろう。初代の内装がそのまま残っているからベースは悪くないのに、壁に100均テイストのデコシール的なものを貼っていたりする、ちょっとお寒い貧乏感が漂う店内は正直センスはよくない。
ランチは1000円ぐらいで、パスタとかメインの組み合わせでいくつかバリエーションがあり、ドリンクはセルフサービスのフリーで、パンもご自由に、という簡易オペレーションスタイル。一つひとつに個性はないけど、まちなかのランチ需要にマッチしているということでランチタイムはそこそこ賑わっている。店のたたずまいからしてもメニュー構成からしても、ハナから本格的とか独創的とかを期待させるような店じゃないし、パスタは量が少なくて選択肢も少ないけど凡庸においしい。コーヒーもおかわりできるし、ハコが広いから、賑わうといってもぎゅうぎゅうに混雑するわけではなく空席が適度にあるおかげで、昼時でも気を遣わずパソコン作業だってできる。特色のない店だから何回転もしないし、並んだりもしないけど、そこそこいろんな客層で賑わっててうまくバランスがとれてる感じだ。

コーヒーをお代わりして原稿の続きを書きながら、ああ、結局こういう立ち位置が一番幸せなんじゃないかと思ったりする。大衆に寄り添い、ちょっとダサめで、だからこそ誰も拒まない。期待以上の働きはしないし、感動も与えないけど、不満も抱かせない。オンリーワンでもナンバーワンでもない安心感と安定感。

おいしくて安くて個性がある店はそりゃあ魅力的だし、そこでしか食べられないものを高い値段で食べさせてくれる店も素敵だ。しかし、キャパを超えた人気が出てしまったら、迷惑なほど客が並んで周辺の交通整理のためにガードマンを雇わないといけなくなるといった本質的ではない部分にコストかけなきゃいけなくなったりするし、金払った以上は自分が上に立って文句をいう権利があると信じるおかしな客にこっぴどく怒鳴られたり、嫉妬した同業者にいやがらせで悪い噂流されたり、初期を知ってる客に「あの店も売れて変わってしまった」なんて、変わらねばいけない事情を無視して勝手なノスタルジーで失望されたり……と意図せぬ悪意を受けがちではないか。既存の資源をうまく流用して、まん中ぐらいのポジションで自足してひっそり生きていれば、そんな面倒なリスクに巻き込まれなくて済みそうじゃない。

実際に、人でも店でも、そうして環境にカムフラージュするように静かに生きる存在は想像以上に多いのだろう。目立たないだけで。凡庸な広い平面がなければ鋭いエッジが鋭く存在できるはずもない。平面は平面として安定してそこにただ広がっていればいいんじゃないの。ついつい無理に突出したがるゲスな欲望を捨てれば、そこには振れ幅の少ない等価交換を淡々と楽しむ幸せがあるのではないのか。

でもそれに明快にyesとも思えず、でもなあ、でもなあ、と思考がぐるぐるするあたり、多分疲れてるだけだけど、あたし。

 

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深夜のひとりごと

自分の体を差し出すことで誰かが喜ぶならどうぞと差し出したい思いは常にあるのだけど、そういう受け身かつビッチな感性については、自分でいいとは全然思っていない。それにともなうトラウマもあって、だいたい自分のことは(人の利害が絡まない限り)なんでもあほみたいに人に話してしまう方だと思うのだけど、この劣等感に関するトラウマはちょっと人には話せないし、墓まで持っていく所存だ。私の行く末に墓があるのかどうかしらんけど。そのトラウマは、その体験そのものが傷になっているのでなく、「それを重く受け止めていない自分」に対する傷なのだ。トラウマのきっかけを作った他者に対して腹が立つとか許せないという思いがない、そういう自分のダメさやあほさに対する傷。

自分の中にある正義感を根拠にして人を断罪したり、強く何かを否定したり、他人の不埒な欲望を嫌悪したり……といった芯のあるビシバシした行動をとりたいという憧れがありながらも、自分にある不埒な欲望の存在を知っている以上、なにもかもを「そういうこともある」とぼんやりと(受け身に)肯定してしまう。

自分はとにかくどう転んでも受け身で、どこかからかやってくる刺激にただ反応し続けているにすぎない。他人に消費されるしか生きる道がないから、消費されることに対して怒れないし、それがなくなれば自分の存在価値もなくなる以上、私を消費しようと考える他者は私の命綱なのだ。みずから何かを求めることができればかっこいいのだけど、そういう性向は直せない。だからそれでもいいじゃない、と決して強くではなく、弱く、受け身に、そう考えている。

 

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冷たい空気のなか、芝生を踏んで走る

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出張でつくば泊、というとみんな「あー」みたいな感じで「なにもないよー」という。前も大学の取材で来たことあるけど、このときは日帰りだったかな。でも今回か朝から夕方まで3件インタビューの予定が入っているということで前乗りを指示されたのだ。


東京泊にして東京から他のスタッフと車でつくば入りという選択肢もあったんだけど、朝から楽しくもない車移動するのもいやなので、私だけ前夜につくばに入ることにした。ホテルも安いし、空いてるし。出張のたびに温泉通の人に「どっか温泉ないですかね」と訊ねるのが通例なのだけど、今回は「筑波山に温泉があって一回泊まったことあるけど、そのときは自分以外だれも宿泊客がいなかった」と聞いて、うーんと思い、普通にビジホにした。でも駅前にダイワロイネットがあったからよかった。いいね、ダイワロイネット。ベッド広いし、部屋で炊くアロマオイルまでくれたわ。



しかし、ホテルの部屋に入ったら、テレビ画面に「つくばにようこそ」って、ロケットみたいな変なものが映ってるし、朝カーテンを開けたらやっぱりロケットみたいなものが屹立しているし「ぎょえーなんなのこのまち、男根主義!」と思わず独り言を言いながらも(いわざるをえない光景やん、科学至上主義的な雰囲気って男根主義っぽいしな)、朝、余裕のあるときは出張先でジョギングをすることにしていたし、今回もシューズ持参だったので、その奇妙な光景の中にランニングウェアで出ていくことにした。そして冷たい空気の中を走ったら、つくばが結構好きになった。

 

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郊外の学研都市らしく駅前にいきなり広い公園があるから部外者でものんびり走りやすい。出張ラン用に持ってくるシューズににはいつも軽くて薄いベアフット系を選ぶので、足に負担がかかりにくい芝生がたくさんあるの、とてもいい。池を眺めながら芝生を踏む。池に映り込む木々の葉はもう色づいている。

 

 

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公園の木々に隠れるように古い団地のようなものもある。古びた建物だ。しかし森に覆われていることで、ただもの悲しい古い建物というわけではない魅力のある風景の一部になっていた。新しいまちは必ず古びるけれど、そのとき、建物と同時に植樹された周囲の木々が森のように鬱蒼と育っていたら、まちの景観は新しいときよりも確実に美しくなっている。緑の力は偉大なのだ。大きな木々が育っているまちは、それだけでも長く人が暮らした証だし、特になんの変哲もないコンクリートの箱形の建物が一様に古びることによって減少するまちのエネルギーを補完して余りある。木が育っているまちは無条件にいいまちだ。

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だだっぴろい芝生を見ながら走っていると、ずいぶんむかし、大学時代にオーストラリアにホームステイした時の朝の空気を思い出した。日本の9月はオーストラリアの冬で、といっても昼間は半袖で過ごせる暑さだったけど、さすがに朝晩は冷えた。ホストマザーが仕事の前に車で学校まで送ってくれるのはいいのだけど、それが始業時間より随分早かったから、私はいつも学校の近くの公園で、他の日本人が到着するまでの間の時間をつぶした。大学生のあたしにジョギングなんてヘルシーな習慣はなかったので、その旅のために当時の彼氏が編集してくれたテープをウオークマンで繰り返し繰り返し聞いた。誰も歩いていない朝の公園の芝生はきれいで、いつもカラスがいた。空気はひんやり冷たくて、わたしは見渡す限りひとりで、耳の中ではロクセットが「あれは愛だった、でももう終わってしまった」と歌っていた。

 

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なんにせよ、知らないまちを走るのはいい。ランニングを始めたメリットはいろいろあるが、その中の重要なひとつは、そこをただ走ることで、しらないまちを親しく感じられたり、好きになったりする契機になることだ。走って嫌いになるまちはない。今のところは。


死を抱く生。北品川の原美術館

東京出張で仕事が早く終わり、品川から新幹線に乗る前に、駅から歩いて15分ほどのところにある「原美術館」に寄った。現代美術の専門美術館。初めて。

品川区北品川。まちの向こうに林立する高層ビルを望みつつも、バス道を一本入ればそこは閑静で住宅街で、星霜を経た……といえば大げさかもしれないけれど、ある程度の厚みを持つ時間の洗礼を受けた住宅街だけが持つ、何世代かにわたる人々の細々とした生活の記憶の層と、それに張りついたぬぐいがたい陰のようなものが沈殿した空気が充満しているのを感じる。



通りの両サイドに建ち並ぶ住宅のエントランスのどこか懐かしい意匠、植栽、ガレージに並んでこちらをにらむ車、などをぼんやり眺めながら歩いていると、左手に長い白壁が現れる。もとは1938年竣工の私邸だったというのだれど、たいへん贅沢なものである。設計は東京国立美術館本館や銀座の和光を手がけた渡辺仁。

 

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(公式サイト)→ Hara Museum Web


現在の特別展は篠山紀信の「快楽の館」である。
いわずとしれたヌードの巨匠、篠山紀信氏の原美術館だけで開催される写真展で、展示されている写真はすべて原美術館の敷地内で撮影されたもの。ヌード写真が中心で、30人以上のモデルを使ったのだとか。壇蜜もいれば、ロリ系、いわゆるグラビア系、スポーツ系、舞踏系、はたまた武闘系(?)、筋肉のつき方も表情もポーズもさまざまなヌードの女たちの姿が百花繚乱の様相で各展示室を彩る。期待していたよりもすごく面白かった。

(展示詳細)→ http://www.art-it.asia/u/HaraMuseum/IoXcFNSpLejTadmKb86i/



受付で受け取った案内には、こんな言葉が掲げられている。
篠山紀信ってこんなおしゃれな文章を書きはる人なんですね。

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美術館は作品の死体置き場、
死臭充満する館に日々裸の美女が集う。

美女たちの乱舞、徘徊、錯乱、歓喜、狂乱、耽溺……
あらゆる快楽がこの館でくりひろげられる。

幻蝶が舞う夢と陶酔の館。
この祝祭は初秋の夜にはじまり、歳明け、厳冬の朝に散る。

たった4ヶ月余の一度だけの狂宴。

お見逃し無く。
2016年   篠山紀信

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写真展示もさることながら、建物がものすごくいい。


美術館にするにあたってどれほどの改造が施されたのかは分からないけど、なまめかしい曲線を多用したデザインは、ときに展示されている写真よりもエロティックで、なんなら館全体が寝ている獣のようなのだ。階段をのぼり、くだり、廊下を奥へ進み、窓から庭を眺め、そうしていることがまるで獣の腹の中を歩いているかのようで、ふと足元の床が脈動している錯覚に襲われる。その現場で撮った写真を、まさにその現場に飾る展示とあって、こうしてみると篠山氏のいうように、展示されている作品が「確かに死んでいる」ことが際立つ。そして、建物だけが生きている。美しい亡骸を抱えて。

半円形に張り出したサンルームの大きな窓枠には、美しくアールのかかったぽってりとしたガラスが嵌められ、古いピアノが日だまりにたたずんでいる。物見櫓のような屋根裏の小スペースに上がる階段は、毛の水滴をふるう猛獣の背中のような不思議な曲線を描く。館の中には特別展の作品以外にも、奈良美智森村泰昌、ジャン=ピエール レイノーなどの常設作品は、展示スペースと一体化したかたちで展示されていて、これらもよい雰囲気。

館内は写真撮影禁止につき、庭の写真をいくつか。庭にも「そこで撮影した」紀信氏の作品が展示されている。

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半円形の建物に過去かこまれた中庭に面してカフェもあり、このテラスも素敵だったが、こちらも残念ながら撮影禁止であった。

ちょっとした時空の歪みを体験できるとてもいい場所だなあと。また寄りたい。

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