うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

恋愛の罪

恋愛している自分は自分らしくないから好きじゃない。

というような意見をどこかで誰かが言っていたか書いていたかしていたのを耳にしたか目にしたかしたことがあって、「本当にそうだよな」と膝を打ったことがある。宇多田ヒカルも『BLUE』で、「もう恋愛なんてしたくない」と歌っているが、きっとこのことを言っているのでしょう。あー、ねえ。そうだよねえ。

ゲーテが書いた「親和力」というおはなしがある。
私の手元には講談社学芸文庫版があって、ここ20年ぐらいの間に何度か読み返しているのだけれど、ここには、恋愛によって、かつて保っていた美しい調和を乱される人々の哀れな様子が描かれている。
物語の始まりのシーンは、丹精された花々が咲き誇り、果樹が豊かに実る庭園だ。庭園の主は、金持ちで趣味がよく、あらゆる意味で幸せな夫婦。その夫婦の恵まれた暮らしぶりを語り起こしつつ、物語はゆったりとしたワルツのような優雅な調子で始まる。しかし、新たな登場人物が加わり、そこに恋愛感情が生まれたことから、この調和した世界の崩壊が始まる。最初はひっそりとした小さな感情の揺れにすぎなかったものが、やがて物語世界全体をのみこむ大波となり、加速度的に崩壊が度を増していく。
物語も後半にさしかかると、読者たる私の脳内に響くBGMは、もはや音楽ではなく轟々たる嵐の音だ。登場人物たちの台詞も2倍速ぐらいのスピードで再生されるようになり、ノイズでいっぱい。終盤に至って疲れた私は決まって、BGMがワルツだった頃を懐かしみ、かつて存在していた美しい世界を、嘆息しつつ追憶することになる。
最後のシーンは、まるで夜通し暴風雨を吹き荒らした台風が去った翌朝のように、看板やゴミ袋や街路樹の枝などが無秩序に散乱している光景、といった風情。ある種の清々しさはあるのだけれど、空しく、醜い。悪の根源は恋愛である。人は恋愛によってその人らしさをなくし、調和を乱す。あまりに悲しい。

もうひとつ思い出す物語がある。
3年前に大阪・十三の映画館で観た『電信柱エレミの恋』という、コマ撮りアニメ・ムービーだ。ヒロインは電信柱のエレミちゃん。エレミちゃんは、電信柱的な自分の人生(柱生?)に嫌気がさしており、電線の不具合を直してくれた電気技師(もちろん人間)にひとめで恋してしまう。その恋は相手によって不可抗力的に引き起こされたというより、半ば以上は自分の現状への違和の表明、行き場をなくした不満の噴出に見える。が、エレミちゃんは相手をその恋に巻き込む。電信柱という職権を悪用(?)して彼(タカハシさんという)に電話をかけるのだ。こうして、電信柱と人間の、電話だけを介した交際が始まる。タカハシさんは真面目で朴訥な独身男性。町内の閉じられたコミュニケーションの中で生き、働き、一人暮らしの部屋でカメを育てたり、プラモデルを組み立てたり、という地味な毎日を送る青年だ。しかし、エレミちゃんとの恋愛が始まってしまうと、タカハシさんの今までのこぢんまりと自足した日々は、そわそわとした焦燥感に満たされた落ち着きのないものに変わってしまう。エレミちゃんから一方的にかかってくる電話を、ただ待つ日々。電話中でなければすなわち電話を待っているという生活。その舞台は今のようにケータイもSNSもない昭和であるから、迂闊に家を空けて電話を取り逃がしたくない。しかし家にいても何も手につかない。時間が経たない。眠れない。つきあいが悪くなる。
恋愛って、結局その人らしいマイペースな生き方を妨げるものなんだよね……。私は観客として、何度も電話機をチラチラと見ては、足を落ち着きなく動かしてそわそわするタカハシさんを見るのが辛かった。罪だよねえ。魅力的なその人の魅力をなくす方向に自分の存在が作用してしまうところが恋愛の罪だ。恋愛に陥った人は、往々にして相手に「普段のあなた」ではないテンションを要求する。普段通りの、その人らしいところを好きになったはずなのに、それを自ら壊して快とする矛盾。恋愛の高揚感は、瞬間的な満足しかもたらさない。長く続く穏やかで前向きな作用をもたらすような関係は、もはや恋愛ではないんだあ……。なんて、何故か私がみじめな気分になったりしてさ。この映画の一番の見所はストーリーではなく緻密な造形の作り込みの素晴らしさなのですけどね。

 

親和力 (講談社文芸文庫)

親和力 (講談社文芸文庫)

 

 
「電信柱エレミの恋」予告編 ELEMI - YouTube