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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

たかじん雑感

やしきたかじんが死んで、確かに関西人として「えっ!」と思ったけど、ここまで色んな人がやしきたかじんを熱く語るのを見るにつけその戸惑いが大きくなった。
私は奈良の片田舎で生まれて現在は神戸在住であり、関西以外に住んだことがないのだが、やしきたかじんはどちらかというと苦手。決して「嫌い」ではないのだけど、なんというのか、全肯定できない複雑な思いを持たずにいられない。やしきたかじんに代表されるような「湿度の高い辛辣」系の「なにわ文化」は、本当は自分に無関係なものとして外から客観的に眺めて「おもろいなー」と笑いたいのに、どうも私が育った環境の中にはどうしようもなくそういうものが入り込んでいるので、すっきりと客観視できず、かといって、自分が積極的に大阪的には振る舞えない失望と、ともすれば大阪的なものから辛辣な批評の対象になりかねない劣等感がないまぜになった曖昧な主体性が混じり合い、気持ちよく笑えない。実際面白いとは思うけれど、自分は本当はもっとドライに爽やかにいきたいんだ、という「ないものねだり」のような理想もあり、なんとなく距離を測りかねた微妙な気持ちになってしまう。いや、まだテレビなんかで辛辣部分だけを見ているうちはまだいいのだけど、実は繊細で…とか、実は情が深くて…とか、実は優しくて…とか、そういう、表面的に隠されている(けれど、実は皆の了解事項である)「ウェット」部分を匂わされるにつけ、苦手感が増していく。

大阪、というと、私にとっては環状線から眺める、どことなく赤茶けた街だ。西九条、弁天町、大正あたりの寂れた運河の風景、新今宮のホーム前に広がる荒涼とした空き地と通天閣、京橋や鶴橋のどぎつい看板。突然話しかけてくるおばちゃん。派手な化粧のおねえちゃん。

いや、それはいい。うまくいえない。
やしきたかじんが死んだことで「やっぱ好きやねん」という歌を久々に耳にしたのだが、この歌って、同じく大阪を舞台とした名曲として知られる上田正樹の「悲しい色やね」の続きみたいな歌詞やったねんな、とふと思ったことをなんとなく書いておこうと思っただけなのだ。男の歌い手が女の立場で語っている点でも共通しているし。
「悲しい色やね」では、大阪湾の夜景を見ながら男女が別れるのだが、女の方は男に未練があり、別れの場にも関わらず固く抱き合う。「やっぱ好きやねん」では、男がかつての恋人の女のもとに突然戻ってきて、ヨリを戻した女が感激して固く抱き合う、という……。情にあふれる大阪女は、この2つの歌の中で、ふられても男を思い続け、待ち続け、迎え入れ、ウェットな愛で包み込むのだ。永遠に。