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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

 

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

 

    

押見修造という名前は、「惡の華」が話題になった時によく目にしたけれど、作品は読んだことがなかった。けど、朝日新聞で以下の記事が流れてきて、読まねばいけないと思ってkindleでワンクリック購入。私も吃音持ちなので、身につまされすぎた。

 

伝えられぬ苦しみ「吃音」 就職4カ月、命絶った34歳:朝日新聞デジタル


漫画に出てきた自己紹介のエピソードとほぼ同じ思い出が私にもある。私の場合、高校ではなく小学校1年生の最初の授業での自己紹介だった。クラスの男子に、つっかえながら話す私の様子を真似ながら嘲笑された。忘れもしないM原くん。もちろん彼は漫画に出てきた菊池くんと同様、明るく健康な男子だった。私の態度が普通ではなかったから面白がっただけで、子どもとしては極めてストレートかつ素直な反応だといえる。私に対する悪意がないこともよく分かっていたけど、私は彼と普通に接することは、中学校卒業までついにできなかった。顔を見るたびに嘲笑が蘇るため、平静でいられない。志乃ちゃんの気持ちが、本当に本当によくわかる。

漫画の中の担任教師とよく似た人物から的外れなアドバイスも受けた。(「ゆっくり話そうね」「あわてすぎてるんじゃない?」with 微笑)志乃ちゃんは作中で、その言葉に違和感を感じながらもそれをまっすぐ受け止めてちゃんと実践しようとしているから、まぶしいほどいい子だけれど、私は目の前の中年女を心の中で「知ったようなこと言うな!死ね!クソ女!偽善者!」と呪った。ゆっくり話してどうにかなるもんじゃない。そんなの長年吃音とつきあってきた自分が一番よく知ってる。そんなもんで治るならとっくに治っとるわ、ボケ!

著者あとがきの文章も、いちいち身につまされた。劣等感と、それにまぎれて肥大化する自己顕示欲。


喋れさえすれば、自分は最強なのに、といつも思っていました。


喋れたらオレ最強。私もそう思っていた。喋れたら、喋りさえできれば、おまえらよりもずっとなんだってうまくやれると。まあもちろんそれは奢りなんだけど、そういう思いは押見さん同様、言えなかった言葉とともに体の中に鬱屈して溜まっていき、ことあるごとに文章という形でアウトプットするクセがついた。歌でつっかえないのと同様、文章もつっかえない。好きなだけ流麗な言葉を重ねることができる! 文章を書くことが喜びだったため、作文のたぐいも得意だった。しかし、その得意さが仇となって、読書感想文で県の優秀賞か何かに選ばれ、市のホールで朗読をしなくてはいけないという目にあったのだからこんな皮肉はあろうか。市内の小学校の先生や生徒で埋まった会場で、私は盛大に吃りながら自分の作文を読んだ。そのときの記憶は辛すぎて詳細に覚えてない。けど、大人になってから、そんなに親しいわけでもなかったヤンキー風味な同級生の女の子に「喋るのが苦手やのに、すごく一生懸命読んでたよな。あのとき、かっこよかったで」と褒められた。小学校のころのそんな些細なエピソードを30歳過ぎても覚えててくれて、しかもそれを伝えてくれるなんて、いい子やな。この彼女は加代ちゃん級。それに比べて私は自分のことで精一杯で、当時の同級生が何にがんばっていたのか、まるで記憶にないんだからね。

中学校に入った頃から、自分のキャラクターを「ざっくばらん」方面に振ることを覚え、失敗を笑いでくるむ方法を身につけ、やや楽に振る舞えるようになった。高校になると、発話をごまかす方法もずいぶん洗練された。でも当時の悩みの筆頭は「吃り」で、たまに恋愛なんかで悩むことがあれば、「人並みの悩みが持てた幸せ」に浸ることができたほどであった。

催眠療法的なものにも行ったことがある。薄汚れた雑居ビルの中の事務室で、小汚いおっさんと向かい合ってカウンセリングを受けた。みじめだった。なぜ私はこんな目にあわなくてはいけないのかと、そのことばかり考えていた。二度と行かなかった。

大学までは割と楽しく過ごせたけど、次なる関門は就職だ。就職活動ではまず「言いやすい社名」であるかどうかが大事だった。苦手な言葉は人によって違うが、私の場合は志乃ちゃんが苦手な母音はまあまあOK。「わ」「や」が難関で、「た行」「な行」も苦手。一番いいやすいのは「は行」で、だから「林」「本田」「早川」「藤原」「長谷川」といった名字は最高。結婚するなら「は行」の人しかありえない、と小学校の頃は真剣に考えていた。長じてかなり苦手な「や」から始まる名字の人と結婚した。結果、まあ、なんとかなるものだ。

なんやかんやあったけど就職もできて、今は文章を書くことが中心の仕事をしている。人前で話す機会もそれなりにある。けど、中高生のころとは比べものにならないほどうまくこなせるようになって、吃音は人生の主要な悩みではなくなった。私の場合、そうなってから初めて、吃音のセルフヘルプグループにもコンタクトをとることができるようになった。いろんな吃音者がいた。私よりずっと激しくどもる人も多かった。自分以外のどもる人と会うのは初めてだった。年齢も立場も色々だけど、みんな初対面とは思えないほど親しい気持ちで接することができたのは不思議なことだ。みんな本当に魅力的な人なんだよね。なんだろう、これ。しかし、こうしたグループに属する人たちは、基本的に「もっと吃音に理解ある社会を」と考えているようで、私はそこに同調できずにいた。今でも「どもり」とか「吃音」という言葉自体がすごく怖くて、できたらそんな言葉を聞きたくない。見たくない。そっとしておいてほしい。その言葉が普及して、知人が私をイメージするのが怖い。

 

でも 追いかけてくる 私が追いかけてくる

私をバカにしてるのは 私を笑ってるのは

私を恥ずかしいと思ってるのは 全部私だから

(志乃ちゃんは自分の名前が言えない p203)

 

 

身近でつきあっていて、多少なりとも観察力のある人なら私が吃音持ちだということは分かっていると思うけど、私は自分からそれを公言したことは一度もない。「どもり」とか「吃音」とか自分が言うのを想像するだけで背筋が冷たくなる。でも、冒頭の34歳の看護師の記事を読み「志乃ちゃん…」の漫画を読み、このひっそりとしたブログで初めてカミングアウトする気になった。
ささいなことだけど、これはちょっとした事件です、自分の中で。自分に幸あれ。