読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

『メロスのようには走らない〜女の友情論〜』北原みのり

 

メロスのようには走らない。~女の友情論~

メロスのようには走らない。~女の友情論~

 

 

女の友情とは何か。
男の友情物語の金字塔「走れメロス」を、女の友情を題材にした「走らないメロ子」に改題した物語がシンボルストーリーとして掲げられ、この前後に、著者がこれまでの人生で出会ってきたリアルな「女ともだち」のエピソードと著者とのカンケイが語られる。

美醜が友人関係に落とす影と「ナナコ」への罪悪感、まるで恋愛のように燃え上がった「リエコ」への激情、男に依存する「タナカ」との齟齬、優秀さと美貌を合わせ持ち、好んで優秀さをスポイルしてゆく「ノリちゃん」への違和感、年若くして結婚育児の中に入っていった「ユカ」と未婚の友人とのディスコミュニケーション……。

著者と同世代(北原さんは1970年生まれ、私は1971年生まれ)ということもあり、確かに誰もが「私も知っている女たち」であり、誰のエピソードもよく分かるし、どのエピソードも痛い。「女の友情は表面的」「陰湿」などと、的外れな誤解を受けがちな女の友情に光を当てる内容に同意し、力をもらいつつも、私は結局、著者のようには濃い友情を築けないという劣等感に凹んでしまうのは何故だろう。木嶋佳苗には女ともだちがいなかった、などと言われると、自分のことを責められているような気分になってしまうのだ。終章近くに「女ともだちとケンカしますか?」という問いかけがあるが、私は女ともだちとはケンカしない。問題が発生する兆しを感じたら疎遠になるだけだ。でもだから、女ともだちとの間には別れはなく、ひとしきり疎遠になったあと、自然に関係が復活する場合も少なくない。そのダラダラ続く感じが恋愛とは違う友情のいいところだと思っているのだけど、全体的に著者の友情は私が考えていた友情より恋愛に似ている。

「わかり合える女友達の獲得」という夢を小さい頃から持っていた。

そして今、互いの恋愛遍歴や黒歴史を知り尽くしている小学校以来の幼なじみもいるし、社会人になってから知り合い、仕事の愚痴や楽しさを言い合う仕事仲間もいる。けれど、著者のように相手の中にあと一方踏み込もうという深さと熱さが私にはない。劣等感が強く「私なんかと友達だと思われたくないのではないだろうか」という勝手な忖度で人間関係に深くコミットしないクセが私にはある。その冷たさを改めて突きつけられたようで、私にはけっこう痛い本だった。

読みながら3回泣いた。リエコのくだりと、ユカのくだり(SATC2で育児のストレスが爆発して泣き叫んだシャーロットを想起した)、田原節子さんのくだり(特に上野千鶴子から電話がかかってきたあたり)。

まあしかし、世の中には「女は陰湿」「女はコワイ」「女はややこしい」というようなある種のステロタイプな認識があるようだけれど、少なくとも私が住んでいる世界には全く当てはまらない。だいたいが男の方が陰湿でコワくてややこしい。
仕事でチームを組むと、なぜか「男ばっかりに紅一点(私)」というパターンか「女ばっかり」か、どちらかになるケースが多いのだけど、仕事をやりやすいのは圧倒的に後者。女ばかりのチームなら、現実的に仕事を前に進めるために一致協力してスピーディーに事を運べるのに対し、男が入ると、話がやたらに抽象的になるし、「男のプライドをケアする」という余計なステップが加わってしまい、手間はかかるわ時間はかかるわ、ほんと面倒なことになる(もちろんそうでない男もいるけどさ)。そして、プライドが高くて面倒臭い男ほど、「女ばかりだとやりにくいでしょう」「ややこしいでしょう」と言ってくるのは本当に勘弁してほしい。まあ、先方にしたらそういうことを考えながら男に接する私がまさにややこしいから間違いではないのか。ははは。