うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

海の夫人

[作:ヘンリック・イプセン、演出:宮田慶子、出演:麻実れい村田雄浩ほか]

 

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大好きな麻美れいさんの舞台が、兵庫県立芸術文化センターに1日だけ巡回する、というのを前日の神戸新聞で知り、わずかに残っていた席をネット予約し、小4の娘を伴って観に行った。

麻実れいさんの舞台を初めて観たのは、2003年2月の蜷川幸雄演出のチェーホフの「桜の園」。麻実れいさんの迫力と可愛らしさが共存しするラネーフスカヤ夫人、本当に絶品だった。このとき、私は蜷川演出の舞台も初体験につき、蜷川演出の典型がこれかと勘違いしてすっかり蜷川ファンになってしまった部分があるのだけど、その後シェークスピア劇などをたびたび観るようになって、蜷川演出作としてはこの「桜の園」はかなり異色だったということに気づいたのはずいぶん後のことだったよう思う。白を基調に様式化、簡略化したシンプルかつ美しいセット。派手すぎず、奇をてらわない抑制の効いた演出。静止画として美しい静謐な絵づくり。全体として静と動なら圧倒的に「静」を感じさせる端正な舞台だった。

次に麻実れいさんの舞台を観たのは、やはり2003年。まだまともな劇場だったころの新神戸オリエンタル劇場。宮田慶子演出、ジョンマレル原作の「サラ〜追憶で綴る女優サラ・ベルナールの一生〜」。麻実れいさんと金田龍之介さんの2人芝居。素晴らしかった。〝優雅〟という言葉は麻実れいさんのためにあると思った。女優として華やかに活躍した時代を経て、いま倦怠の中で晩年を生きる老女が、そこにいた。その絢爛たる存在感のありえなさ。カーテンコールの拍手に応えて登場した女優の指先までもが完璧にサラ・ベルナールで、舞台から彼女が消えた後も、消えずに残るその余韻に打たれ、会場を離れがたかった思い出がリアルに残る。

そして本日の「海の夫人」、宮田慶子演出と聞いて、原作に関する知識はゼロながら、「サラ」の思い出を胸中に抱いて劇場に出向いた。麻実れいさん、相変わらず優雅を体現していて素敵だった。けれど、村田雄浩麻実れいの夫婦という配役から「裕福な初老の医者×若い後妻」という関係性を読み取るのは難しい。視覚情報とセリフから入ってくる音声情報の齟齬を埋めるのに余計な神経を使ってしまって、ちょっと舞台に入り込めなかった。女にとって、男にとって「真に自由に生きる」とはどういうことなのか、そのテーマの本質について考えをめぐらせるほどに舞台に自分を没入させることができなかった。残念ながら「サラ」の感動はなかった。それは、当時まだ20代だった私の感性の量が過剰だったからなのか、この舞台がそもそも持つ熱量が少なかったからなのかは、分からない。船のような曲線を描く、白くペイントされたウッドデッキが鎮座するセットは、私の記憶の中にある「サラ」の海辺の別荘のセットの印象と重なったけれど。

まあしかし、やりきれなさの残るお話ではあった。舞台上では、ヒロイン・エリーダ(麻実れい)が、人生の半ばにさしかかってようやく自分の足で人生を歩む決意をする一方で、義娘のボレッテ(太田緑ロランス※彼女すごくよかった)は自分の女という価値を換金すべく愛のない結婚を決意する。ボレッテは、帝の求婚を受け入れたかぐや姫だ。かつては庇護者であった年上の男に触られるたび「自由のために」という呪文を唱え、サムイボを立てながら、自由を捨てて自らを売る。その牢獄を、イプセンは描いたのだろう。その牢獄を。