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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

個人の思いと歴史をつなぐフィールドワーク  小倉美惠子『オオカミの護符』

 

オオカミの護符 (新潮文庫)

オオカミの護符 (新潮文庫)

 

 

なんとも不思議な読み心地。取材に基づいた社会学的な部分と、きわめて個人的な感情が露出した伝記的な部分が(おそらく著者の中ではまっすぐにつながっていて矛盾がないのだろうけど)融点の違う金属を混ぜて溶かしてまた固めたみたいな奇妙な断層を感じさせる固着を遂げている。

といっても悪い意味ではなく、扱われている題材も、アプローチもとても面白かった。
これは、オカミ信仰、山岳信仰、農村文化をめぐるフィールドワークの記録である。

出発点となるのは、かつては里山の間に畑が広がる農村だった神奈川県川崎土橋地区。しかし、高度成長期に東京の通勤圏であることから宅地開発が進み、今はすっかりベッドタウンへと変貌を遂げている。1963年に土地の「百姓」の家に生まれた著者は、成長期にまさしくその大きな変化に直面している。そして、幼少期の記憶にある故郷とはすっかり風景が変わってしまったころ、ふと、自宅の土蔵に貼られている見慣れた「オオカミの護符」に興味を持ち、護符に導かれるようにその地に連綿と根付く山岳信仰をたどる旅に出かけることになる。それは日本土着の文化と奥深くへとつながっていて……。

「信仰」というと、仏教なり神道なりの宗教が対象になっているものだと漠然と思い浮かべるし、実際にここに描かれている信仰にまつわるさまざまな祭祀も神社仏閣が拠点になっていたりするのだが、実は宗教的意味の方が後付けで、その前に百姓を主体とし、百姓文化と一体をなした素朴な自然信仰が自律的に確立されていた、というあたりの、歴史の古層の掘り起こしもとても興味深い。

……のだが、何より私は冒頭に掲げられた「地元の子どもたちへの手紙」で泣いた。

お友達と一緒にいるときにおじいちゃんが私に声をかけてくると、他人のフリをしてその場から逃げてしまったりしました。私は新しく土橋にやって来たお友達に、おじいちゃん、おばあちゃんのことや、茅ぶき屋根の家のこと、そして農村だった土橋のことも、誇りを持って話をすることはできませんでした。

 

宮崎小学校に通っていたころは勉強をしなくても成績がよかったのに、富士見台小学校に来てからは後ろから数えた方が速くなってしまいました。みんなは塾に通っていたのに、私の親は塾のことも知りませんでした。自分の成績が悪いのは農家だからだと思い込んでしまったのです。

 

私はこれまで仕事とは与えられるものだと思っていました。世の中にある仕事のどれかを選ばなければならない。就職しなければならないものだと考えてきました。しかしお百姓の暮らしを知れば知るほど、自分の目の前にあるものから自分で仕事を作り出してゆくことの大切さを思いました。

 
土橋地区が急速に変化した1970年代。当時小学生だった著者は、新しく地域に流入してきた住民たちの都会的でキラキラとした空気に怖じ気づき、茅葺き屋根の古い家や、祖母が古い布を継ぎ合わせて作ってくれた座布団に象徴されるような土にまみれた百姓の暮らしを恥じるようになる。幼少期に自分のルーツに誇りを持てなかったというこの悔恨が、著者を「仕事」に駆り立てる原動力になっているのだ。私は1971年紀伊半島生まれだけれども、この感覚は分かる。同じような悔恨を共有する人はこの本を読むと故郷で何らかのフィールドワークがしたくなるはずだ。やっとけ。

ところで、今年に入ってたまたま読んだ本に、同じく1970年代の多摩エリアの住宅地を舞台にした有吉佐和子の『夕陽ヶ丘三号館』がある。この本には「サラリーマン的新住民」の目線で当時の時代の空気が描写されているので、本書と合わせて、思いがけず旧住民、新住民の視点を対比できたのは面白かった。確かに、夕陽ヶ丘三号館に登場する主婦は、みな、自分の子どもにはいい教育をつけさせたいと考えており、それゆえにもともと地域にあったレベルの低い学校には通わせたくないなどと言って差別的に見下す様子が確かに描写されているのだ。

同じ時代、同じ日本にいても、時代は一様に進むわけではない。時の変化は「まだら」に、局地的に進み、まだらな進化は、面としてそこに広がっていた文化を徐々に分断し、孤島化させ、やがて失わせる。同じ時代に生きていても、その時代的体験は決して一様ではない。それらを記録し、残していくのは、やはり個人的な感情を軸にした手法しかないのではないかとも思うのだ。