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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

相互補完が崩れるとき 『リリーのすべて』The Danish Girl

監督:トム・フーパー、出演:エディ・レッドメインアリシア・ヴィキャンデル、ベン・ウィショーアンバー・ハード、マティアス・スーナール 120分/2015年/アメリカ

 

lili-movie.jp


見てから随分経つのだが、感想を書けずにいた映画。

舞台は1920年代のヨーロッパ。デンマークの風景画家アイナー・ヴェイナーは、やはり画家である妻ゲルダと幸せな結婚生活を送っているが、やがて自分の中の女性としてのアイデンティティに気づき、女性リリーとして生きていくことを決意する。そして、世界で初めての性適合手術を受けることになり……。

実在の人物をモデルにした小説が原作ということなんですけど、そりゃ大変ですわね、その時代に性同一性障害に気づいてしまうなんてさ。まあしかし彼女はそれを積極的に果敢に乗り越えようとするわけですよね。前例の全くない、リスクだらけの手術を受けてまで。

予告編で「これは絶対あたしの好きなやつや!」とワクテカして見に行ったのだけど、見終わった後はすご〜〜〜く微妙な気分になった。いや、いいんだけどさ。役者は文句なしに魅力的だし、映像は美しい。テンポもよい。しかし「いい話」にはとても思えなかったんだよね。なんしか妻ゲルダがかわいそうでかわいそうでかわいそうで……。以下、まあまあネタバレあるかもしれない。

ゲルダの夫、アイナー・ヴェイナーは、画家本人の心象を折り込んだような陰鬱な風景画を得意とする画家で、その芸術性がどこまでのレベルなのか私にはよく分からないのだけど、映画の描かれ方を見るとそこそこ画壇に評価はされているようである。ただし、その「内省的」な画風は現代的とは言い難く、少し時代に取り残されてもいるようだ。

一方、ゲルダは肖像画を得意とする画家で(当時はまだ写真の代わりとして肖像画に実用的な価値があったんでしょうか。私は時代背景についてまったく無知なのでよく分かりませんが)、彼女の描く絵画の即物性および商業性によって芸術家と見做されておらず、画壇でも全く評価されていない。今でいう商業イラストレーター的な扱われ方なのかもしれない。もちろん商業イラストレーターが悪いわけではないが、彼女自身は芸術家として評価されたいのに、その土俵にも上がれていないわけで、そこにはジレンマが見てとれる。しかし夫が描いているような風景画には興味がないし、自分の作風をどう変えればいいのか分からない。

この夫婦には、それぞれが画家であるという大きな共通項があるが、夫はアートだがモダンではなく、妻はモダンだがアートではない。端的にいってかなり異なる個性、言い換えれば相互補完的な個性を持つ者同士である。実際、こと画風に限らず、この夫婦はことごとく相互補完的なのだ。内省的な夫と外交的な妻。女性的な夫と男性的な妻。思慮深い夫と破天荒な妻。冒頭のパーティーシーンで、ふたりがなれそめを語るカットがあるのだが、そこでも“相互補完的な個性に惹かれ合った”ことを示すエピソードが語られる。そしてもちろん、だからこそ素晴らしく相性のよい夫婦だったのだ。本質的な部分で相互補完的であること以上に夫婦関係を良好にする要素があるだろうか。ないっしょ、たぶん。

その夫婦関係に歪みが生まれるのは、ゲルダがアイナーに女装させたことに端を発する。シャイで控えめな夫アイナーを半ばからかうように、ゲルダは自身が制作中のバレリーナの絵の脚の部分のモデルをさせようと、ストッキングを履かせ、カンバスの前でポーズをとらせるのだ。この時、アイナーが幼少期から感じていたであろう自身の「男性としての体」に対する違和感が表面化してしまう。「女性として振る舞っている時こそが本当の自分だ」と目覚めてしまうのだ。ここからなしくずしに、妻ゲルダは夫の女性化をサポートしていくことになる。

しかし、引っかかるのはアイナーは女装すると「リリー」という別人格になってしまうことである。性別の認識が関わると人格まで変わるというのは、トランスジェンダー的には「あるある」なのかな? アイナーは女装するとスイッチを切り替えるようにリリーになってしまい(しかも映画の中では『アイナーの従妹』という虚構まで与えられている)、そうなると性的嗜好の対象ももちろん男性となり(もちろんっていうのは私の考えじゃないよ、この映画の中では当然のようにっていう意味よ)、愛する妻がいるにも関わらず男からのキスを受け入れてしまったりするのである。リリーにとってのゲルダは「従兄の奥さん」であって「妻」ではないのよね、完全に。それって性同一性障害というより二重人格なんじゃ……。と思ったりもしたのだけど、ほんとよく分からない。これは性同一性障害的にはよくある話なのか、それともアイナーの特殊事情なのか……。

最初はアイナーがリリーでいる時間は限られているし、女装を解けばアイナーに戻るのだけど、だんだんリリーの時間が長くなっていき、アイナーの人格はリリーに侵食されるように消滅していく。これを横で眺めなければいけないゲルダ。いくらなんでもキツイでしょ。だって愛する夫が死んでゆくのを眺めるに等しいわけだから。

しかし皮肉なことに、そのリリーがゲルダの芸術性を開花させてゆくのである。ゲルダはリリーをモデルにして大量の絵を描き始めるのだけど、それらの絵にはこれまでなかった芸術性が発露し、ゲルダを画壇に押し上げる。その一方でアイナー/リリーは絵を描くことすらやめてしまう。しかしそれはリリーにとっての不幸ではない。そもそもアイナーにとって芸術は「自分らしく生きること」を封印したことの代償行為だったからだ。ここでゲルダが芸術に邁進できればよかったのだけど……。

アイナーは「人間としてのゲルダ」の根拠であり、リリーは「芸術家としてのゲルダ」の根拠である。もしゲルダが真に芸術家であれば、リリーを受け入れた上で、リリーとの新しい関係を築けただろう。相互補完的に。しかし悲しいかなゲルダは芸術家である前に人間であり、もっといえば女であり、彼女の真の欲望は「芸術家たること」ではなく「愛する男と暮らし、子を産むこと」だったのだと思う。ここに至って二人の欲望は完全に対立し、相互補完性が崩壊する。ゲルダにとってアイナーは唯一無二の夫であるから、夫の望みに寄り添わずにはいられない。しかし、アイナーがリリーとなった今、ゲルダが彼/彼女を助けることは、愛する夫の殺害に荷担すること、ひいては自分を殺すことに等しい。アイナーがリリーに侵食されてゆくにつれ、ゲルダをゲルダたらしめていた明るさ、軽さ、破天荒さは影を潜め、ただ献身的で悲劇的な妻になってゆくのだが、これも理の当然といえるだろう。ゲルダの「陽」を支えていたのはアイナーの、アイナーだけが持つ「陰」の部分だったのだから。リリーがゲルダに依存しているように見えて、実は依存しているのはゲルダの方なのだ。

辛い話だし、悲しい、可哀相な話だ。何が辛いって、アイナーが自分の欲望に正直に生きることが、魅力的なゲルダの本質的な保守性を明らかにしてしまうことが辛い。アイナーが自己実現することで、ゲルダの自己実現は永遠に不可能になることが辛い。でも、だからといって他にどうすれはよかったのか?

真の自分の姿に気づいて、新しい世界に羽ばたいてゆくのは爽快だし美しい。困難もあるけれど正しい道だ。しかし、それは古い世界で利害を共有していた相手との対立を必然的にもたらすだろう。どちらか片方が全面的に割を食う形でその対立を飲み込めば、それが「美しい愛」「真実の愛」といわれるのはいかがなものか。いつも置いてかれる方が割を食う。自分本位なあたしは断然置いてく方になりたいわ。なんだかんだいって新しいことを始めたり新しい自分になったりするのは楽しいもん、なんてことをモヤモヤしながら思った映画。

 

 



あ、各方面で言及されている通り、エディ・レッドメインは素晴らしいですよ。どんどん美しくなっていく。女装に違和感がないといえば嘘になるけれど、説得力はある。でもやっぱシュッと背広を着こなしつつ苦悩する男としてのアイナーの方が好きなんだけどね、私も。完全にゲルダ脳で見たからさ。アリシア・ヴィキャンデルもよかったです。強く見せようとしながら弱くて脆い、とても魅力的だけど可哀相な女。超マッチョな体で繊細な人間像を演じていたのが新鮮だったマティアス・スーナールツも魅力的。そしてそして、どこにいてもチャーミングで、そこに世界を作ってしまうベン・ウィショー♡ ベンとキスしてるだけでリリー幸せすぎるやろ!!許さん!!!と私怨を垂れ流して終わり(笑)。