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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

共同生活って難しい……『マダガスカル』

大雨で明けた土曜日の朝、娘と一緒にアマゾンプライムで「マダガスカル」を見た。ニューヨークの動物園の人気者、芸達者で都会派の動物たち(シマウマ、ライオン、カバ、キリン、ペンギンたち)が、動物園を抜け出し、いろいろあってマダガスカ島に漂着して……という筋のコメディアニメ。2005年の作なので、今見ると表現はとても素朴だけれど、筋立てがズートピアの前段っぽい。

 

マダガスカル (吹替版)
 


ライオンのアレックスは、元来臆病な性格だけどかっこいい自分が大好き。人気者として君臨する現状のポジションにも動物園の暮らしにも満足していた。一方、シマウマのマーティーは好奇心も自立心も旺盛。向こう見ずで楽天的な性格なので動物園の柵の中の暮らしに満足できず、自らすすんで園からの脱走を試みる。

食事と生活の心配のいらない動物園という環境の中で、そもそもライオンのアレックスとシマウマのマーティは、肉食動物と草食動物の壁を超えて友情を育んでいた。しかし、アレックスは人間から与えられる食べ物のない環境にいきなり放り出されて空腹に苦しみ、次第に親友のマーティーが大好物のステーキ肉に見えてくる。意識が朦朧とする中、思わずマーティーの背中をなめたり、おしりにかぶりついたり、すわ捕食・被捕食関係への転落の危機に何度も陥りながらも、理性で友情を維持し続けるという……。

「きわめて人間に従順なのにそれを理解されないアレックス」とか「食欲という野生の本能に負けそうになりながらも理性を保つアレックス」とか「マダガスカル島の肉食動物のフォッサは個性を無視して種としてサクッと悪役設定」とか「魚は下等生物として(?)即食べ物扱いでOK」とか、それらの道具立てや筋をどこまで人間関係のメタファーとして見ていいかは、設定が雑なせいもあってたいへん微妙で、うーんとモヤモヤしてしまう。

一緒に見ていた娘も「アレックスはフォッサを食べればいいのに〜」とかゆうていたが、あの描き方ならそう思うのも致し方ない。さすがに作中ではそういう解決にはしてなかったけど。

しかし私は途中から、生理的欲求を満たされないまま一方的に理性を求められるアレックスが可哀相で見ていられない気分になった。空腹はあかん、空腹は理性を狂わせるよ。だからマーティー、草食動物の自分は食料に困らないからと、アレックスに一方的に理性を求めるのは酷くないか……。「もとのアレックスに戻ってよ」というのは簡単だけど、もとのアレックスがいた環境と、今の環境は全然違うんだということを考慮しないと、その要求は暴力になるよね。

あらしのよるに」とも似てるんだけど、まあ、捕食・被捕食関係である肉食、草食動物の関係を人間関係のメタファーにするということは、どうしたって限界はある。

限界はあることは承知しつつも、昨日こんなものも読んで思わず夫に同情したことを思い出す。まあ確かにその気じゃないことを重々承知している相手に、寝ているとはいえ子どもがいる環境で「アプローチ」とか、一方的な憶測にもとづく「ムードづくり」とか、この夫のやりかたもたしかにキモイ。でもやっぱり「子どもも込みの共同生活」が互いにとって第一義であるならば、両者の求めるものを相互に理解しあって歩み寄る姿勢は必要だよな。そして、そもそも互いの第一義が食い違ってるなら破綻もやむなし。

anond.hatelabo.jp
まあ、星の数ほどある人間関係、まあ人それぞれとしかいいようがなく、私は何の結論も持ち合わせていないけれどさ。
読売オンラインの岩永直子さんの「性とパートナーシップ」連載なんかを読んでると、ほんとうに、深刻だけど滑稽で、いじらしかったり、やっぱりキモかったり、自分勝手だったり、感動的だったりする性にまつわるさまざまな人間関係の築き方、解決、未解決などが収録されていて感慨深い。

yomidr.yomiuri.co.jp
まあ自分という存在がだれかにとってものすごく禍々しかったり、不幸のもとになったりはしないように気をつけながら人生の後半生を生きたいものです。

 

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