うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

対話するうた「連句」

連句茶話』を読んだ。神戸在住の詩人・鈴木漠さんの連句論だ。

 

連句茶話

連句茶話

 

 
 季節を折り込んだ五七五の発句に続けて、七七(短句)、五七五(長句)を、グループで次々に付けていく。対話し、変化し、虚構を広げるという独特の特性を持つ文学様式「連句」の起源を紀元前の古代中国に求め、その後の日本文学史に伏流し続けた二千余年の歴史を一気にたどる。

 「連なる句」というぐらいなのだから、句のつながりでストーリーが展開していくのかと漠然と思っていたが、俳諧文化の成熟期である中世の芭蕉一門の俳諧などを見れば、前句と付句のあいだに一見して分かるような有機的なつながりはなく、それぞれの句が独立した情景や叙情を描いているように見える。

 実はそういう組み立てにもトレンドがあって、そもそもは前句から直接的に連想される言葉を用いて句を付ける「物付—ものづけー」が隆盛したが、やがてそれが野暮とされ、前句の心をくみ取った「心付—こころづけー」が主流となる。これがさらに変化し、芭蕉は「移り・響き・匂ひ・位をもって付けるをよしとす」(去来抄より)という美学に行き至ったという。そして、間接的な「付け」でやわらかく前句とつながりながら、世界観を異方向へと転がしていく「転じ」を引き出すことこそが俳諧の醍醐味とされるようになった。

それ以外にもさまざまなルールがあり、たとえば、連句には「花」「月」「恋」にまつわる句を必ず入れべし、というのもそのひとつ。というわけで、連句にはこのような素敵な恋句も含まれている。

老(おい)が恋忘れんとすればしぐれかな 蕪村
落書(らくがき)に恋しき君が名もありて 芭蕉
物おもふ身にもの喰へとせつかれて 芭蕉

あら芭蕉がこんなことを……。と意外な気もするけれど、「付けと転じ」は虚構性を煽り、ダイナミズムを生む仕掛けにつき、これらは必ずしも作者のリアルな心情吐露であることを保証するものではない。虚構なのだ。

これらすべてのトピックが知らないことだらけでとても刺激的だった。芭蕉のダイアローグと西鶴のモノローグの対比も興味深かったし、さらには、コクトーやラディゲの短詩に日本の俳諧が影響を与えているのではないかという夢想にもぐっとくる。

さて、現在、鈴木さんは、西洋の十四行詩の形式を使った「ソネット連句」の創作に取り組んでいるそうで、日本語には向かないとされる「脚韻」を読み込むだけでなく、「同語去り」という、同じ語句を連句内で二度と使わないというおそろしくストイックな縛りを設けておられるとのこと。そのチャレンジングな姿勢も素敵だし、その縛りの中でなお、いえ、縛りがあるからこそ、本書でいくつか提示されている現代連句はとても自由だ。句集がいくつか発行されているのでこちらも読んでいきたいと思う。

あんまりまとまりのない感想だけど、最後に、本書内に引かれていた『古今和歌集仮名序』の名文をぜひともここに置いておきたい。

花になくうぐひす、水にすむかはずのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いずれかうたをよまざりける。ちからをいれずして、あめつちをうごかし、目に見えぬおに神をもあはれとおもはせ、おとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をも、なぐさむるはうたなり。

うたがあれば、力を入れずに天地を動かし、男女の仲もやわらげると。ほんとにね。紀貫之さんはいいこというね。生きるために、ほんとうにもっとうたが必要だなあ。古代から連綿と受け継がれてきたような対話するうたが。

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