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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

10月に思ったりしたこと

視覚を間接的に得る

障害者スポーツを体験できるイベント「ノーマライゼーションスポーツ大会」に娘と一緒に参加した。アイマスクをつけて鈴の入ったサッカーボールでシュートしたり、レース用の車いすで100mを駆けたり、いずれも楽しい体験だったが、出色は、アイマスクを装着して伴走者と手と手をひもで結わえてトラックを走る「伴走ラン」であった。自分はマラソンをやっているので、「視覚障害者」のゼッケンをつけて「伴走者」とともに走るランナーの姿を何度も見たことがあるが、他のランナー靴音だけが響く道を、視界なしで走り続けるのはものすごく不安だろうと想像していたのだが、その想像はまったく裏切られた。そこには安心感と安らぎが満ちていたのだ。もちろん私が走ったのはわずか数百mで、それだけで何かがわかるはずなどない。しかし、想像していたのと全く異なる感覚にものすごく驚いた。間接的に視覚を得ている感じ。目の前は暗いのに、見えている感じ。


伊藤比呂美の『閉経期』を読む。

出典は婦人公論の連載エッセイ「漢(おんな)である」。40代後半からの、いわゆる更年期の猛々しくパワフルな女たちを漢(おんな)と呼ばわり、その実感を語るものだ。加齢により膣は乾くだけではなく閉じるのだそうだ。というような「うへー」というような話に始まり、陰毛の白髪、脂肪の増加、自分の顔相に二重写しになる母や祖母の影……といった加齢にまつわる、どちらかというと、というか普通にネガティブなエピソードのあれこれを明るくバサバサバサと語り、その語り口は逆説的にファンタジーの様相を帯びる。若いころは加齢とともに人生というのは堅牢に積み重なっていくのかと思っていたが、自分が40代も半ばになって感じるのは、どんどん人生がファンタジーになっていく感覚だ。未来の減少に比例して、動きは鈍くなるのに、存在が軽く、軽くなっていく。


イージーライダーを見る。

アメリカンニューシネマの傑作といわれる本作を初めて見た。共感できないというか、話の流れも登場人物の行動も全く予測することができず、もちろん理解もできず、最初から最後まで観客として「どこにも寄り添うことができない」他者の映画。でもそれが不快なわけではない。目的が曖昧なまま、背景だけが動いていき、音楽が流れる。LSDが色づけたサイケな世界、あまりに日常と地続きの排他的圧力と暴力。また、それに対比されるヒッピー村の退屈。厳しい村落社会もいやだが、楽しい協働、ラブ&ピースの行く末だって退廃と分裂だけではないか。よそ者をテコでも受け入れない圧力の先の同質性も、無秩序に外部を招き入れた上でのゆるい同質性も、どっちもぞっとしない。世界はそのレイヤーを突き抜けたのか、突き抜けていないのか。