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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

この世界に本当に居場所はあるのか『この世界の片隅に』

2016年11月の公開以来、観に行こうと思いながら行けていなかった『この世界の片隅に』を、すっかり暮も押し迫った12月29日にやっと観に行った。事前に予約していたからよかったものの、18時すぎの回のシネリーブル梅田は満席だった。すごいね。

 

私は涙もろい……というより、涙腺がふしだらといっていいレベルにゆるくて、きれいな風景とBGMの組み合わせぐらいの刺激で割と簡単に涙を流してしまう人間なので、私が泣くことの意味は相当に軽いのだけど、それにしたって、映画館で照明がついた後もしばらく立てないレベルまで号泣したのは、考えてみれば『かぐや姫の物語』以来なのであった。

 

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戦中に生きたヒロイン・すずをめぐるこの物語は、冒頭に幼少期のエピソードが盛り込まれてはいるものの、その主軸は、彼女が広島から呉へと嫁入りした昭和18年12月から太平洋戦争終戦(昭和20年8月)までのわずか1年半あまりの出来事にすぎない。しかし、その背景には、刻々と移る戦局があり、戦前・戦中の風俗とその変遷があり、瀬戸内の自然や地域文化があり……といったさまざまな情報が盛り込まれている。風景描写を一瞥するだけで、海や空をそのように描くために歴史や自然にまつわる膨大な考証を経たことがすぐに分かるほどにその表現は濃密だ。が、それらの意味を視覚表現だけで了解できるほどこちらには予備知識がなく、加えて音声情報は登場人物が広島弁で語る台詞だけとあって、提示された意味を100%拾うのは難しい。もちろん、情報をすべて読み取れないことが映画を鑑賞する妨げにはなるわけではなく、むしろ拾いきれないほどの「情報の厚み」があるという事実が心を揺さぶる。一般的にアニメというのは情報を単純化して主題を強調するのに適した表現形式だと思うのだが、画面の隅から隅まで作り手が創造する必要があるそのアニメという形式をとりながら、読み取れないほどの情報を画面に横溢させたことに、作り手の「物語ではなく現実の断面を見せよう」という意志がにじむ。些末事の集積としての「現実」を。
冒頭3分で、何かよく分からないけどもう泣けてしまってそれが止まらない、というのは、そこに描かれている主題に共感したとか、感動したとかではなく、「アニメという形式で現実を表現しよう」という迫力に打たれたから、というのが正直なところで、そのあと2時間にわたってあほみたいに泣きつつづけたのはもう、それら描かれた現実のあれこれが末梢的に私の神経を刺激するからなのであった。

とはいえ、この映画がそうした事実や出来事の積み重ねによって現実の断面を表現し得ている一方で、まったく現実を描写していない点もある。この映画に描かれた世界はあくまで、ヒロインすずさんの、妄想を含んだ主観としての現実でしかないからだ。

その表れとして、しばしばリアルな風景描写が、すずさんの描いた絵のタッチに変わる。現実は、ときに美しく色彩に富んだ水彩描写となり、ときに左手で描いた歪んだクロッキーになる。すずさんが意識をなくすと、暗闇に光がぱちぱちと弾け、時間が錯綜する。その間、すずさんのいない世界がどのような姿をしているのか、観客は知りようがない。すずさんを取り巻く登場人物のすべては、基本的に悪意のないいい人ばかりだが、これもすずさんという「ぼーっとした」パーソナリティーが生み出した妄想・主観にすぎない。観客は、素晴らしくよくできたこの映画を通して、すずさんという特異な個性を通した特殊な世界を追体験できる。だからこそ、スクリーンに向き合う2時間は、辛い出来事にくるまれてなお、ほの温かい。しかし、実はこの映画の外の現実は、もっともっとグロテスクで、えげつなく、辛く、厳しく、理不尽なことがたくさんあることも同時に感じざるを得ないわけで、そこにも泣く。泣かざるを得ないでしょう。それはね。私が見ている現実では、いつも波頭にウサギが跳ねているわけでなく、きれいな女の人の吐息から花がふわふわ飛んでくるわけでもないのだから。もちろん、すずさんの世界の中にも、小さな悪意が瞬くことがあるし、本人が自覚していない大きなストレスもほのめく。しかしその悪意やストレスは人を傷つけないし、すずさん自身が前を向いて生きていくことを妨げない。

すずさんの生き方は、辛い現実に向き合うときのひとつ態度のあり方を教えてくれる。まず、与えられた状況がなんであれ受け入れること。言葉を言葉通りに受け取って、裏を読まないこと。
しかし、それは誰にでもできることではない。いや、すずさんだって完全にそれに成功しているわけではなく、そこにこの映画の一番の痛みがあるわけですけども。しかし、ここにきて私は、同じように私の号泣を誘ったかぐや姫のことを考えざるを得ないのだ。

すずさんは、気の強い義姉から「周りの言いなりに知らん家へヨメに来て、言いなりに働いて、あんたの人生はさぞやつまらんじゃろと思うわ」と同情されるほど、周囲に流され生きているが、彼女自身はその流されゆく現実を、いつか覚める夢のようなものと捉えており、選ばなかった無数の「あり得たかもしれない人生」と目の前の現実をそれほど差別化していない。突然求婚してきた見知らぬ男を「いやなら断わりゃええ言われても……いやかどうかもわからん人じゃったねえ…」と、判断を留保して受け入れる。その美しさゆえに位の高い求婚者がひきもきらず、しかし誰にも納得せず無理難題をふっかけて周囲も自分も不幸にしたかぐや姫とは対照的だ。

しかし、並外れた美しさがなかったら、かぐや姫だって、すずさんのように生きられたはずなのだ。自分に値段をつけない、自分を貨幣にしない、という素朴さ、純朴さはこの2人の女に共通した美質なのに、かぐや姫はその美しさゆえに周囲に勝手に値付けされ、それを喜ばないからという理由で世界から憎まれ、その居場所を失った。かぐや姫の罪は、自分の価値を低く見積もりすぎたことだ。無理難題をふっかければ、自分のような女のことなど誰もが見限るだろうと思いきや、女の美しさを権力と紐付けずにいられない男たちが、かえってその価値を高騰させていった。しかしその高騰を彼女は頑として利用しようとしない。地位と権力にしか価値を見いださない男から見て、これほどたちの悪いビッチはいない。すずさんのようにメジャーな通貨となりうる資質を持たずに生まれていれば、世界の片隅に居場所を見つける道があったのに。

感想をうまく書けない映画なのに、うだうだと視野の狭すぎる感想を書いてしまいました。まあ、そんなとこです。2回目はしばらく見ることができないな。表現に力がありすぎて、すごく消耗してしまうから。

というわけで、映画を観た後、こうの史代さんの原作漫画を読んだ。漫画はまだしも冷静に読めるし、情報を反芻できる。そして改めて漫画としての情報の詰め込み方に感動しつつ、その漫画の世界観がそのまま映画に美しく移植されていることにも唸った。

とかいいながら、漫画には映画では割愛されていた周作さんの恋のエピソードがあって、周作さんのイメージがちょっと変わったので、最後にしょうもないけど、これだけはいっときたい……。周作さん、遊女に恋して純愛を貫こうとがんばった挙げ句、周囲の反対でその恋が破れるや、幼少時代の淡い初恋の相手を執念深く探し当てて求婚するってさ……。いくらなんでも童貞マインドほとばしらせすぎやろ!! あ、こういう人好きですけどね。おわり。

 

 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 
この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

 
この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

 

 

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