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うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

I love you , but I am not belong to you.

映画

アマゾンプライムで『ティファニーで朝食を』を再見した。

 

 

4年前にこんな感想を書いていたのだけど、まあ印象はあまり変わらない。というか、以前よりもポールのアホさにあきれた。

形式的にはハッピーエンドなのだけど、全然ハッピーエンドに見えない。だいたい、ポールの「I love you, You are belong to me」てなセリフがアホすぎると思う。


愛しているから君は僕のもの、などという言葉が寝言でないと信じられるのは彼が善良であるがゆえだが、所詮そんなものは危険思想だ。人間は、自分から見ることができる他者の一側面を愛し得るにすぎないし、もちろんそれでいいのだ。だから何か愛したいものがあるなら一側面を精一杯愛せばよく、自分が理解できない側面をも含めて人間を所有しようなんて傲慢すぎる。「I love you, but I love me more」と言い放って男と別れた『セックス・アンド・ザ・シティ』のサマンサの爪の垢でも飲め。どうしてもそう思い合いたいなら、その傲慢をロマンチックだと互いに信じられる特異な相手を探して、趣味としてやればいい。

ラストでポールは無理矢理ホリーに幻想を押し付けることにいったん成功したかもしれないが、遅かれ早かれ、彼は本質的に自分のものになどならない彼女を憎み始めるだろう。結局、凡百のネズミ野郎でしかないのだ。

いや、映画としてはとても面白いしよくできているし、男のアホさや、それを思わず受け入れてしまう女のダメさも含めてありそうな話だと思う。しかし、だからこそラストはしんどい。まやかしのロマンスに回収された、一時の甘い癒しにすぎないハッピーエンドから透ける未来が辛いのだ。


しかし、原作は全然映画とは違う、という話を聞いて、トルーマン・カポーティ作、村上春樹訳の新潮文庫版「ティファニーで朝食を」を読んでみることにした。

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

 

 

うーむ、なるほど。面白い。
しかし、映画の印象が強すぎて、そして映画におけるストーリーの改変が激しすぎて、うまく文章を脳内で映像化できず混乱する。ことあるごとにヘプバーンの顔がちらついて、本来なら文章から自然に想起されるべき人物像がうまく立ち上がってこないのだ。しかし、少なくとも小説中のホリーの人間像が映画のヘプバーンと似ても似つかないことは明らかだ。

ヘプバーン演じるホリーは「援護者を要する可哀想な子猫」だったけど、小説のホリーは「檻に入れると死んでしまう野生動物」なのだ。

映画は映画ですごくうまくつくってあるなと思うけど、結局さまざまな改変は「ラブロマンス」という枠組みに回収するためのものであり、そのために物語としての整合性は犠牲になっている。そのへんについては訳者・村上春樹の巻末の解説が素晴らしいので、私がことさらなにもいうことはないのだけど。

映画における男はヒモで、女は娼婦。どちらも権力不均衡な他者依存的な存在という意味で同じ地平に立っていて、そこから抜け出すという共通のゴールがハッピーエンドとされているような節もある。しかし、小説では2人が立つ地平はねじれている。語り手たる「僕」は基本的に傍観者でしかなく、最後まで本質的な意味でヒロインの人生に関与できない。その証拠に名前さえ与えられていないのだ。しかし、ねじれた地平のままで思わず距離が縮んでしまったとき、さまざまな軸で上下関係が錯綜し、互いに擦過傷を与え合う。

富という軸、社会性という軸、インテリという軸、奔放さという軸……。

時代背景とか、うまく読み取れていないところも多いけど、所詮、本質的には他人の人生に関与できないという悲しみと諦念、そして、それをベースにした自由の輝き。

やっぱり、映画の甘い癒しよりも美しいと思ってしまう。

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