うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

『未来よ こんにちは L'avenir』—狭まる未来のクローゼットに何を入れるか。

[脚本・監督:ミア・ハンセン=ラブ 出演:イザベル・ユペール、アンドレ・マルコン、ロマン・コリンカ、エディット・スコブ]


とても、よかった。

ヒロインは50代後半の高校教師、ナタリー。同じく教師の夫と、娘、息子とともにパリに暮らしている。近所には独居で高齢の母。年をとってわがままになっている母にはしばしば振り回されているものの、知的でやりがいのある仕事と落ち着いた暮らしに恵まれた毎日はおおむね幸せだった。しかし、このままずっと続くかと思われた日常が、思わぬかたちでほころび始めて……。

 

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「夫の浮気によって日常が崩壊する」なんて要約するとダサい昼ドラみたいだが、実はストーリーはそこにはほとんどフォーカスを当てていない。そして「物語」はさらさらと流れてつかみどころがないが、中身は濃い(まるで現実のように)。説明的なシーンがほとんどなく、そこにあるのは、断片的な会話と表情だけ。それなのに、なにげない行動の断片から登場人物それぞれのキャラクターが浮かび上がってくるのだから素晴らしい。

たとえば、ヒロインの母は、若い頃にモデルをしていた元・美人。この彼女の行動がふるっている。彼女はほぼ要介護状態にも関わらず、80歳を超えてもセクシーであることに存在意義を見いだすフランス女の矜持を捨てていないのだ。そして、自分が騒ぎ立てたおかげで無駄な出動を余儀なくされて辟易としている屈強な救急隊員を一瞥するや、「あら、いい男がいたわね」と値踏みし、テレビの討論番組に出演するサルコジ大統領(映画の中では現役)を「誰これ?」をのたまった挙げ句「下品な顔ね」と一蹴することを忘れない。


イザベル・ユペールがヒロイン、ナタリーのキャラクターにあまりにフィットしていることにも目を奪われる。

彼女はとても、華奢だ。そして、少し頭が大きい。いや、そういう言い方はフェアじゃないかもしれない。頭部に思考がぎっしり詰まっているせいで、彼女の重心は肉体を無視して上方にありすぎるのだろう。その発達した脳を支えるには、体があまりにほっそりしすぎている。頭を支えきれずぐらぐらと揺れる少女のような肉体。

知的で意志の強そうな表情やふるまいと、それにそぐわない華奢な体。大人と子どもが奇妙に混じり合ったような不安定なバランスを持つ彼女の体つきが、ナタリーというキャラクターに、あまりにもふさわしいのだ。一人でずんずん歩くシーンを見ていても、そっと支えてやらねばすぐに倒れてしまいそうで心配になるが、彼女の精神は支えられることを常に拒絶している。

上記のような描写も含めて、どのシーンも情報量が多く、とてもすべては拾い上げられない、つまり安易な図式化を拒んでいることもこの映画の大きな美点だ。

それは言語レベルでもそうで、たとえば、ヒロインが高校の哲学教師という設定なので、授業や会話のシーンで、ふと立ち止まりたくなる含蓄のある言葉が散りばめられているのだが、そこで思索をめぐらせてしまうと、その間に画面は移り、その後の言葉を聞き漏らしてしまう。いけないけない、と、スクリーンに意識を戻すと、ついさっき、わたしを穴に引きずり込んだいろいろな言葉や思いは蒸発してなくなっていく。もうちょっとあれもこれもじっくり考えてみたいのに。

というわけで、さまざまな見方が可能なのだが、わたしが雑にまとめることを許してもらえるとすれば、この映画は、世代の相克、というものを描いているのだな、と思った。

どの世界でも、いつの時代でも、若さは老いを飲み込んでいく。どちらが正義か、なんて関係ない。時が流れるとはそういうものだ。ここには「世代」という補助線で浮かび上がるさまざまな関係性の人間が登場するが、常に若さは老いを凌駕する。

かつて時代は、自分のためにあつらえた洋服のようにフィットしていたのに、ふと気づけば、あちらもこちらも縫い目が裂けている。さっさと古い衣を脱いで新しい衣をまとえればいいが、そうできる人は多くなく、気づいたときには決定的に「時代おくれ」になっている。

最も象徴的なのは、ナタリーと教え子ファビアンの関係だ。才気煥発な彼は、気鋭の思想家であり、仲間とともに政治的な活動にも身を投じ、来たるべき行動の時がくるまで、思想的な力をためている。彼は高校生のころ、哲学の面白さに目を見開かせてくれたナタリーを師として尊敬しているが、その一方で、新しい思想を評価しようとしないナタリーのかたくなさに落胆してもいる。

ナタリーと夫は同世代だ。しかし、彼女は夫を評して「18歳のころからまるで変わらない」「あの人に急進的な自由主義は無理よ」などと言い、彼が頭の固い保守派であることを見下していた。しかし、私生活において新しいパートナーを見つけ、古い生活を脱ぎ捨てたのは彼の方だった。(そしてそれは若い世代の「娘」からのアドバイスを受け入れた結果なのである)
ファビアンはナタリーと夫の離婚を知ったとき、「あなたたち夫婦は同志だと思っていたのに」と残念がるが、その言葉の奥には「頭の堅い夫のそばで理想の自由主義を唱えているぐらいがあなたにはお似合いだ」との皮肉な含意が全くなかったわけではないだろう。

ナタリーは、自身の本を出版している出版社の若いスタッフからも「あなたの本は時代遅れで地味で売れないから、せめてデザインをおしゃれにすべき」と遠回しに苦言を呈されるが、彼女は「本をキャンディのように包むつもりはない」と、その提案を拒絶する。そんなナタリーを見送るスタッフの表情は、目を開き、口角を下げる例の(「だからおばさんは困るんだよね」とでもいわんばかりの「やれやれ」という)表情を浮かべる。おっさん上司の話相手を長々とさせられた後の若いOLが浮かべる、おなじみのあの表情を。

一方、高齢の母と対比すればナタリーは若い。そして、いつまでも過去の習慣を改めようとしない母に苛立つ。しかし他ならぬその母こそが自分に高等教育をつけてくれたこと(娘に「みっともない」「恥ずかしい」と疎まれるようになるリスクを承知しながら)が、彼女の今の暮らしの礎になっていることに対して心から感謝してもいるのだ。それでも彼女は母に対する苛立ちを抑えることはできない。それはファビアンの自分自身に対するアンビバレンツな感情ときれいに重なる。

現在は常に、「わたし」を過去に押しやりながら、未来をどんどん侵食してゆく。「わたし」の居場所はどんどん狭まっていく。

この映画を撮ったのが、30代の気鋭の女性監督・ミア・ハンセン=ラブであり、ヒロインを演じる大女優に「40歳を超えた女は生ゴミよ」なんて言わしめることを考えれば、世代の相克というテーマは、メタなレベルでもしっかり仕掛けられているといえる。

かといって、映画を全体として見て、老いを一方的に価値のないものとして断罪しているわけでは決してない。彼女は、母の形見の黒猫を捨て、教え子から精神的に離れ、本棚にぎっしりとコレクションした本を半分失った。家の中にはぽっかりと新しいものを受け入れるスペースを得て、映画は幕を閉じる。そこには彼女の新しい生活の予感、新しい思想の予感がある。それが未来というものだ。


映画のあちこちに散りばめられた若い世代のフレッシュな意見、新しい時代の空気を、どのように自分の中に取り込んでいくかという問いは、観客であるわたしにも強く投げかけられている、と感じた。

その問いかけは、わたしをも鋭く刺す。とはいえ、映画全体として見れば、細部がとても丁寧につくられているので、見ていて本当に心地よく、説教臭さとは無縁だ。

そこここで登場する哲学の断片、その含蓄。(欲望をなくせば幸せもないって、本当かしらね)
とても演技には見えない些細で現実味にあふれた仕草。(たとえば、ナタリーが母親が飼っていた太った黒猫、パンドラをカゴに入れて持ち上げようとするとき「あ、重い」と、小さくよろける仕草など。とても演技には見えない)


ほんとうに、とってもよかった。
何度も見返したい秀作。

 

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