うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

せわしない日々の映画へ(1)〜『SHIDAMYOJIN』

なんかもう、夏だというのに、1本いくらの賃労働に身をやつしながら、締切をなんとかやり過ごすだけで精一杯で、ほんまに貧乏暇なしとはよく言ったものです。頭かきむしりながらパソコンに向かって目をしょぼしょぼにしているか、呆けた顔でネットを見ているかの夏。たまさか空き時間ができれば固まった体を動かすことを優先したくなるのでとりあえず走る。映画も本も、人との出会いも私の横を通り過ぎていく。その中でも辛うじて観た映画、読んだ本、素敵な言葉、美しい風景の数々、それらを何もかも記録しておきたいという欲望はこの通りあるというのに、強制もされていないのにパソコンの前にこれ以上長時間座りたくないという体の底からわき上がる拒否感のなかで、書き留めたい微かな思いは過去へと流れて忘れて果ててしまう。わがことながら切ない話です。

夏はこうして過ぎていく。いつものことだけど。夏。暑すぎる夏、不快指数が高すぎる夏。かつて大好きだった恋人のような夏。正直いうとさすがに私もちょっともうこの暑さ不快さは堪えられない、もう苦手といってもいいかもしれないって肚の底では気づいていながらも、夏をはっきりと嫌うと「元気な自分」という幻想が砕けてしまいそうで、夏を疎ましく思うなんて夢想だにしなかった10年前、20年前と同じように、好きな季節は何ですかと問われたら「夏です。もちろん夏です」と答える2017年です。神様、あと少しだけ。

ま、それはともかく映画のメモです。

 


『SHIDAMYOJIN』
監督 :遠藤ミチロウ、小沢和史、出演:遠藤ミチロウ木村真三、伊藤多喜雄、石塚俊明(羊歯明神)、山本久土(羊歯明神)、茶谷雅之(羊歯明神Jr.)、タテタカコ、永山愛樹 2017年、日本、71分

 

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7月20日に、神戸・新開地、神戸アートビレッジセンターで。
映画は、けたたましく鳴るガイガーカウンターの音から始まった……かどうか実は覚えてなくて、ミチロウさんがそこらの店で野菜なんかを買い物する風景から始まったんだったかな。どうだっけ。いずれにせよ、街角でニコニコして穏やかに話す小柄なおじさんの姿と、眼のまわりを濃く隈取る歌舞いた姿でステージに立ち、激しくがなり、踊るパンクロッカー像がうまく重ならない。しかし映画の中で彼は2つの姿を行ったり来たりする。慎ましく生活する一市民であるかと思えば、扇動するカリスマでもある。その往復が彼の日常なのだ。
遠藤ミチロウさんは福島県二本松市の出身なのだそうだ。そして、震災後の被災地を訪ねるうちに、強制避難区域に入らなかったホットスポットいわき市志田名地区と人々との交流を深めていく。その交流のよすがとして「民謡」に出会い、民謡パンクバンド「羊歯明神」を結成。途絶えていた盆踊りを復活させたり、その「民謡パンク」をひっさげて沖縄や愛知の音楽フェスにも参加する。ライブシーンにかなりたっぷり尺を取っているので「音楽」だけにフォーカスしても十分楽しいのだけど(歌うミチロウさんは文句なしにかっこいい!)、もちろん政治的メッセージも濃厚だ。とはいえ映画全体のムードとしては、反体制の激しさより、寂しさや優しさ、消えゆくものを惜しむやりきれなさの方が強く迫ってくる。映画の中で披露されている曲の歌詞の多くは、少数派を切り捨てようとする政治に強い口調でアンチを突きつけているが、櫓の周りをぐるぐると真面目な表情で踊り続けるおじいちゃん、おばあちゃん、かえって笑顔の若者たちの姿とその曲が重なると、それは優しい現状肯定のようにも見える。
そして私は、ドンドンパンパンとリズムを刻む音頭に揺られながら「音楽はメディアである」「特に庶民のメディアである」という思いを強くした。ドンドンパンパンに強い言葉が乗る。いくら強い言葉が乗っても、音頭はそれを相応に解毒する。遙か過去から民衆の言葉を乗せてきた土着のリズムという船は、言葉の無数のバリエーションと親和しながら、強い批判も怒りも、日常を生き抜いてきた自分たちへの言祝ぎに変えていく。「よくぞがんばって夏を迎えたことよ」「よくぞ今まで生き延びたことよ」と。私のそういう見方は負け犬の思想かもしれないけれど、いかんせん胸が熱くなった。本当に胸が熱くなったのだ。

この調子で何本が続けようかと思ったけど、長くなったからこれで出す。続き書けるかな。もう盆も過ぎたな。もう少し夏らしいことをしておきたい。


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