うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

観劇記『プレイヤー』〜演出家・長塚圭史の退屈と興奮

森ノ宮ピロティホール
作・前田知大 演出・長塚圭史 キャスト・藤原竜也仲村トオル成海璃子シルビア・グラブ峯村リエ、高橋務、安井順平、村田絵梨、長井短、大鶴佐助、本折最強さとし、櫻井章喜木場勝己真飛聖

舞台はある地方都市の公共劇場、そのリハーサル室。国民的なスターから地元の大学生まで、あらゆるキャリアを持つ俳優やスタッフたちが集まり、演劇のリハーサルが行われている。
演目は『PLAYER』。幽霊の物語だ。死者の言葉が、生きている人間を通して「再生」されるという、死が生を侵食してくる物語。(中略)
 物語は、劇中劇と稽古場という二つの人間関係を行き来しながら進んでいく。死者の言葉を「再生」することと、戯曲に書かれた言葉を「再生」することが重なり、演じることで死者とつながった俳優たちは、戯曲の中の倒錯した死生観に、どこか感覚を狂わされていく。
(公演パンフレットより)

 

natalie.mu

昨日の仕事中、ふと、今まで観劇してきた舞台のパンフレット類をつっこんでいるファイルボックスから古い冊子をあれこれ取り出してパラパラめくっていたら、阿佐ヶ谷スパイダースの2010年の公演『アンクチクロックワイズワンダーランド』のパンフレットが目についた。タイトルは翻訳劇ふうだが、長塚圭史が書き下ろしたオリジナル脚本である。これが実は(あくまで私の乏しい演劇鑑賞経験の中ではあはるが)、確実に生涯ベストの10指に入る1本なのである。梅田のシアター・ドラマシティで、興奮と喜びに震えながら泣いたことをはっきりと覚えている。前から5列目ぐらいのいい席だった。

私は特に阿佐ヶ谷スパイダースのファンというわけではない。長塚圭史は俳優としてちょくちょく観る機会があったものの、演出作は2003年の『ウィー・トーマス』まで観たことがなかった。しかし、これが観客の予測を上に上に裏切り続けていくハードスプラッタで、めっちゃ面白かった。ラストには、舞台上がほんとうに血の海になるという。舞台でそこまで血糊使うのか!? という衝撃。セットも俳優も演出もよかった(主演の北村有起哉さん最高やったな……)。救いのない物語なのにどこか爽快。体を張って舞台を作っていることが伝わってくる躍動感に興奮した。

2008年には、作・演出を長塚圭史が手がけ、松たか子鈴木杏がダブル主演する『SISTERS』を観た。これがまた素晴らしくてさ。痛々しくグロテスクな愛の物語を詩的に表現……というには、俳優にあまりにも大きな負担を強いるS味の強い演出に目をむいた。このキャストでそこまでやるか……という容赦なさに、演出家としての長塚圭史の業の深さを見た。体に痺れたような余韻が残る素晴らしい作品だった。

『SISTERS』をひとつの区切りとして、長塚圭史文化庁の新進芸術家海外留学制度で、2009年9月までロンドンへ留学するのだが、私は「留学前にこんなインパクトの強い舞台やってしまって大丈夫なのか」と心配した。帰国後、これを超えるインパクトのある舞台が作れるのか、と。しかしそれは杞憂であった。帰国後1発目の『アンクチクロックワイズワンダーランド』は、これまでのイメージを打ち破り、なおかつ違う地平に観客を運んでくれる素晴らしい意欲作だったからだ。

いや、客観的に見れば、とても観念的で退屈な舞台だった。しかし、その退屈さこそがものすごく刺激的で、痛々しいほど攻撃的で、観ている間じゅう私は大興奮してアドレナリンを出し続けた。

……と、感動した割には具体性のない描写で申し訳ないが、実はもう具体的な内容をよく覚えていないのだから仕方ない。なんか冒頭に髑髏を作る女が出てきたっけな……。でもほんとうにすごく面白かったのよ。脳内を攪乱されるような興奮は、まるでドラッグだった。ま、カーテンコールが終わった後、隣に座っていた2人連れの上品なマダムから「意味がわからなかったよね」「途中で寝ちゃったわ」という会話が聞こえてきたが、こういう善良で上質な観客を裏切る覚悟をしたことがまた素晴らしい、と思ったことを覚えている。

2010年といえば、小林聡美主演の『ハーパー・リーガン』(長塚圭史演出)も素晴らしかった。前半と後半で全くテンポが異なる演出は、まるで音楽の転調のようだった。前半の退屈を、後半の興奮がすべて回収していく。演劇にはこんなことができるのか、と感心したし、静謐と饒舌の表現に深みが増している、と感じ入った。観客に退屈を課すことを恐れない、ある種の「傲慢さ」の魅力。ああ、2010年に戻ってもう一回見返したいなあ。


……たいへん前置きが長くなりました。

以上のようなノスタルジーにひとしきり浸ったわたしは「そういえば最近の長塚圭史ってどうなってるんだろう」と思って検索し、最新演出作『プレイヤー』が大阪公演の真っ最中ということが分かったのでした。しかも当日券があるという!
何か運命のようなものを感じて早速予約。予約時点では「立ち見席」しかなかったけれど、実際に会場に行ってみると「開放席が出た」ということで、割といい席で着席して見ることができました。よかった。

 

f:id:moving-too-much:20170902230120j:plain



で、『プレイヤー』です。
あの2010年から7年。長塚圭史は今、どんな地平にいるのでしょうか!

かつては「興奮至上主義者」のようだった彼。ロンドン留学を経た2010年には、観客の退屈を恐れないチャレンジャーになっていた彼。
果たして2017年、彼はすっかり大御所になっていました。退屈を恐れないどころか、あえての退屈と冗長を使いこなしながら、その退屈と冗長にこそ、有無をいわせぬ説得力をたたえる術を完全に備えていたのです。

ほめすぎかな。

いや、実際に大御所ですもんね。顔もどんどんお父さんの長塚京三に似てきてるしさ。
それはさておき、退屈さから傲慢さが差し引かれ、まろやかになったな〜と思った。


冒頭に掲げたストーリーの要約を見ても分かるように『プレイヤー』という芝居は、劇中劇という入れ子構造に、「今ここ」の舞台と観客の二重性を重ね、さらに劇場外の現実の要素を重ねていく……という、メタにメタを重ねた多重構造になっている。いかにも理屈っぽくて賢そうでややこしい。そうした複雑な構造を分かりやすく整理して伝えるのではなく、あえて境界を曖昧にしていく文法のもとで舞台は進む。かといって、そこに「あえてわかりにくい芝居をやってやるぜ」というような、尖った気負いはない。

劇中の登場人物たちは、死者という空白の回りに集い、その周辺をぐるぐると回る迷える魂の群れだ。そうした群像がかたちづくる不気味で不穏な空気を描きつつ、さまざまな含意やメタファーやメッセージを、安っぽくもなく、図式的になりすぎもしない適度な曖昧さに着地させ、ありきたりな表現だが「観客の数だけ答えがある問題」として演劇的に提示する。

こんなこと書いてると芸術性の堕落みたいだけど、そんなことはない。これが成熟ってものなんだなあと。こういうややこしい題材を、演出のコントロールを隅々まで利かせつつ、実力があり誠実な俳優の力を借りて退屈かつ冗長に表現する、ということができる(許される/可能である)人は限られている。長塚圭史は間違いなく、その立場にいる演出家のひとりなのだなあ……と。美しい進化です。


個人的な感想を述べると、私は登場人物一人ひとりの理屈の中にもれなく個人の利己がにじむところにもっとも共振した。人は人を、生者は死者を(強者は弱者を、いいかえてもいい)、どうしょうもなく利用するものなのだ、という達観とある種の滑稽さが、あるかなきかの希望とともに描かれていたな、と。

これは脚本マターだけど、生者の記憶≒幽霊≒死者という図式も、面白いなーと思った。集合的無意識とか、死者と生者の交流とか、増えていく死体、といったモチーフや世界観には村上春樹っぽさがあって、そこには決して新しさはないけれど。

俳優のことをいうと、舞台で初めて生で見た仲村トオルはこの世のものとは思えぬ「王子様」感があってびびりました。ほっそ! 体型なんて、まんま少女漫画に出てくる男子です。藤原竜也よりもよほどファンタジーな存在感。ディズニーの王子様役とかもできそうやな、と思った。51歳だぜ、仲村トオル。すごいよ……。

途中、着ぐるみの犬が出てくるシーンがあるのですが、このシーンはグロテスクでよかった。犬の名は「シュレディンガー」。中に入っていたのは市長役の櫻井章喜。この演技もよかった。制作スタッフ役の長井短さんもよかったですね。表情が遠くからでも分かる。身体も舞台に映える。ピリッとしている。

なんかもうちょっとうまいこと書こうかと思ったのに、長いだけで面白くない内容になってしまった。辛い。とはいえ、まあ、なんしかわたしは面白かったです。ある演出家の成熟。そしてそこに横たわる十数年の月日。

しかしそれを傍観しているわたしは一体、どんな成長をしたっていうんですかね……なんて考えるとまあ、ちょっと暗くもなるのだけれど。


保存