うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

5年後に見返したい、温かく退屈な映画『パターソン』

監督:ジム・ジャームッシュ 、製作:ジョシュア・アストラカン カーター・ローガン、製作総指揮:オリバー・ジーモン ダニエル・バウアー
キャスト:アダム・ドライバー、ゴルシフテ・ファラハニ、バリー・シャバカ・ヘンリー、クリフ・スミス、チャステン・ハーモン

 

とにかく、予告編が素晴らしくてね。

主人公は、ニュージャージー州パターソンに暮らすパターソン。街と同じ名前を持つバス・ドライバーだ(演じるのは、アダム・ドライバー!)。寡黙でシャイで、繊細な観察眼と豊かな感受性を持つ彼は、日々の仕事の傍らで詩を書きためており、そこには、淡々とした、しかし愛と奇妙な偶然と幸せに満ちた日常が織り込まれている。同じようでいて、少しずつ異なる日常。詩のような暮らし、暮らしのような詩……。

 

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映画のエッセンスが適度にリズミカルに、ペーソスとユーモアを交えつつみずみずしく表現されている。いい。素晴らしい予告編だ。ね、素晴らしいですよね?

見ると、とてもゆったりとしたいい気持ちになって、いい人になれそう……。わくわくして映画館に足を運んだ。

 

映画が描くのは、ある月曜日から日曜日までの1週間だ。朝、彼は妻とともに心地よく布団にくるまっている。ほどなく目覚める。そして、出勤前に小さなノートを開き、マッチ箱をモチーフにした詩をさらさらと綴る。その言葉は、観客が見つめる画面上に筆写される。独特の浮遊感。観客は詩のリズムに身を委ねる。心地よい。

 

……しかし、心地よすぎた。私はすぐに寝た。

はっ! 目覚めた。パターソンはバスに乗っている。同僚とのやりとり、車中の人間模様。意味ありげに登場する双子たち……。私はまた寝た。

はっ! 目覚めた。移りゆく街の景色。パターソンの柔和なまなざし、お弁当……。私はまたもや寝た。

 

だめだ。我慢しても我慢しても眠気が襲ってくる。もう無理だ。めちゃくちゃ眠い。ひょっとして私、退屈しているのではないか? 認めたくなかったので、必死で目覚めようとした。手の甲をつねったり、口の中を噛んだり、太ももに爪を立てたりした。でも寝た。繰り返し寝た。何度も寝た。たぶん4分の1ぐらい寝てたんじゃないかな。映画が半分を過ぎたころには、自分が退屈していることがはっきり分かった。とても残念だった。私にはこの、みんなが褒める秀作を丁寧に鑑賞するに足る教養がなかったのだ。一抹の敗北感。

 

似たようでいて、少しずつ違う1週間を淡々と綴るこの映像が「映画という形式の詩」であることはわかった。モチーフの繰り返し、イマジネーションの上品な逸脱、意味の脱臼と押韻。分かる。分かるんだけど、もう少し予告編のようなテンポが欲しかった。あまりにゆったりとしたこの映画のリズムに、私の体はついていけなかった。ダメだ。無理だった。そう思いながらも、鑑賞後数日、いろんなシーンが脳裏に浮かぶので、見た後も気にはなっていた。思い返すシーンは、明らかに好きなのだ。

最も好きだったのは、パターソンが妻・ローラにやさしく触れるところ。ベッドの中で体を抱いたり、半睡半醒の妻にそっとキスしたり、いかにもそうっとした動作がとても心地よさそうで、体温や肌のきめまで分かる気がした。

 

あるいは、夜のコインランドリーで体を揺らしながら、リリックを作るラッパーが登場するシーン。そこだけ明るいコインランドリー。回る洗濯物。犬とともに暗がりから詩に聞き入るパターソン。こんな風に、ほんのわずかな関係性が交錯しただけなのに、リスペクトが交わる瞬間があり、その余韻は心を温かくしてくれる。優しくて愛のある素敵なシーンだった。

 

一方で、モヤモヤするシーンもあった。いや、そんなシーンなかったっけ。うん? でもずっとモヤモヤしてたよね、あたし。なんだったんだろう、あれ……。

 

そんなことを考えているときに、『パターソン』を見た友人が同作をレビューしたブログを読むと以下のような表現があって、「そう、それそれ!!」と思った。

でも主人公は奥さんが何をしてもたまににこにこする以外はぼんやりした顔で
愛おしそうにはするんだけど、どうも現実感がないんですよ。

他にもいろいろ、主人公は満足してるようだけど
わたしから見たら我慢してるように見えるシーンがいくつもあって

でもとても愛し慈しみ合う二人ということのようなので、よくわからない。

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そうなんですよ、そう!

この夫婦、本当に仲がいいのかどうか、画面からだとよく分からないんだよね。というか、むしろ裏があるように見えるのだ。夫婦だけじゃない。全体的にパターソンを取り巻く人間関係はすべて不穏に見える。でも、映画としてはそれがなかったことになっている。それに対して、ものすごくモヤモヤしたのである。

上記で言及されているように、まずは夫婦の関係。

パターソンの妻・ローラはめちゃくちゃ美人なんだけど、個性的なファッションセンスと、浮き世離れした言動で性格づけられた「アーティスト」(実際は何なのかよくわからない)で、常に地面から3㎝ほど浮いているような人である。この彼女が、突然「ギターを買いたい! 買っていい?」とパターソンにねだってみたり、なんかすごく不味いらしいへんてこな料理(という設定らしいのだが、画面ではとてもおいしそうに見える)を作ったりする。

それを受けたパターソンは、明らかにちょっと戸惑った様子で「いいよ。買ったら?」と、おそらく心にもない言葉で買い物を承認してみたり、まずい料理を口に無理矢理入れて「おいしいよ」といいながら水で流し込んだりする。ローラをそれを見てもパターソンの戸惑いや妙な挙動には一切気づかず、ニコニコと素直に喜ぶのみである。ピュアな彼女は夫の言動の裏を読んだりしないのだ。

しかしこれ、普通に考えてめちゃくちゃ不穏なシーンじゃないですかね。これを伏線にして、やがてパターソンが妻にキレるのではないかと不安になりますよ、普通。

 

この妻は日常的に夫の詩を激賞しているのだけど、この褒め言葉も信じて言いのかどうかよく分からないし、小遣い稼ぎに作っているカップケーキも美味しいのかまずいのか判然としない。彼女の趣味にどんどん染め上げられるインテリアが、パターソンにくつろぎを与えているようには見えないし、週末のデートで彼女が見たがる古いホラー映画を夫が観たいと思っているようにも見えない。火種はたっぷりあるのだ。

 

あるいは映画の後半で、飼い犬がパターソンの大切にしているものをめちゃくちゃにしてしまうのだが、ここでは珍しくパターソンが怒りを表に出す。

私はビビった。キレたパターソンが暴れる血みどろの展開もあり得ると思ったのだ。本当はこの犬のことを憎んでいるのではないか。「そもそもお前なんか死ねばいいと思ってたんだ、このアホ犬! 毎日郵便受けを倒しやがって!」とか言い出すんじゃないかと。

バーでちょっとした騒動が起きたときのパターソンの行動も少し不気味だし、会うたびに生活の不満をぶつけてくる同僚や、くだらない会話をする乗客にも苛立っているように見えないこともない。

さらに劇中には「パターソンの腕っ節が実は強い」ことを示唆するシーンがいくつかあり、私は「彼の柔和さは、本性をくるむ衣にすぎないのではないか」という疑念をうっすら抱いていたからなおさらだ。

 

しかし、結局何も起こらない。

「裏なんてないよーん。徹頭徹尾これは温かい日常を描いた映画なんですよーん」という顔で映画が終わってしまえば、劇中に漂っていた不穏な空気はなかったことになり、個人的なモヤモヤだけが疑問符を内包してぼんやりと漂い続ける。このモヤモヤ、誰が回収してくれるのか……。

 

かように本作には「映画の前提」と「劇中の表現」に微妙な、しかし決定的なレベルで齟齬がある……ように見えるのは私だけ? 

いや、おそらく私は鑑賞するにあたっての心構えが中途半端だったのである。端的にいって教養がなかった。この映画は、ジム・ジャームッシュの世界観をあらかじめ共有し、「目立ったことは何も起こらない映像詩」を鑑賞しようという期待と意気込みを有する者が見るべき映画なのである。であれば、私が違和感を感じた表現も「淡々とした日常にアクセントを添えるもの」としてほっこりスルーできるだろうし、永瀬正敏が唐突に登場する、ギャグにしか見えないシーンも「粋な演出」として楽しめていたはずなのだ。それどころか、画面のあちこちにちりばめられた粋なオマージュをもっと豊かに味わうことができただろう。というか、そういうふうに味わうことがこの映画の本質なんじゃないか。

『パターソン』では血みどろの事件や、憎しみのぶつけ合いは起こらない。一篇の詩として、画面に流れゆくよしなしごとを穏やかな気持ちで鑑賞しなければならない。私は残念ながら鑑賞者として脱落したが、5年後に見返せば「いい映画だ」と思えそうな気がちょっとする。

 

いやいやいやいや、やっぱりダメだ。5年後にはぜひ、妻と愛犬の死体が転がる血みどろの家の中に一人たたずむパターソンから始まる猟奇映画として続編を作ってほしい。お願いします、ジャームッシュ監督!

 

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