うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

関わる必要のないものから遠ざかる

先日、Facebookで文化度の高い知人の文化度の高いつぶやきを見て、そこで使われているロジックが自分の中には全くないものだということに対して反射的に軽く傷ついたのだが、こんなに大人になっても、自分の文化度の低さみたいなものに対する、難しそうな、深そうなことを分かってそうな人に対するコンプレックスがあるのだなあ、と思って自分を苦々しく感じ、反射的にそのことを視界から外して忘れようと思ったのだけど、そういや今年は年頭に、自分が嫌だなと思ったものも冷静に直視してみようという抱負めいたことを考えたことを思い出し、時間をおいてから、ふたたびその文章を読み返してみた。

その人は、ある「庶民に人気の、文化度の低い(?)施設」を名指しでクサしている(ただし文化度の高い語彙で)。そもそもそんな場所に興味はなかったのに、その日の目的地の目の前にたまたま存在していたのでふと寄ってみた、のだそうだ。そして、目的地そのものは「なかなかよかった」というだけで、具体的名称さえ出していない。

これ、あたしだったら、よかった目的地のことだけを具体的に褒めるし、「たまたま寄ったけれど気に入らなかった場所」のことなんてことさらに言及しないよなーと思った。なぜ印象がよかった方の施設の名前を伏せるのだろうか? ふつうは逆じゃないかな、と。よいものを紹介した方が情報としての価値も高いしさ。

誹謗対象になっている施設を好きだと思っている「友達」がたくさんいるだろうと思われるFacebookで、その文化度の低さを嘆く、という行為そのものに、やはり悪意あるいは特権意識が根ざしていることが再読するとはっきりとわかった。わざわざ選んで何を発信し、何を発信しないか、ということは、そこに書かれた意見そのものよりも実は重要なのである。

これまで自分は、なにか自分が傷ついたと感じた瞬間に、たやすく傷ついてしまう自分のダメさから遠ざかりたい一心で、その対象からパッと身を離して、後ろを振り返らずに一目散に逃げる、という行動様式をとりがちだったけど、振り返ってその対象をよく見てみれば、強く思えたその対象の中にも鬱屈はある。あらかじめ悪意が仕込まれたものに傷つくのは当たり前なので、その仕組みや意図を自分なりに理解するのは大切だな、と思った次第。

……というところまで考えたところで夫にその文章を見せると「なにこれ、単に嫌味な文章やん」とあっさり言われ、こんなのに傷つくとかあほちゃうか、という目で見られた。はい、あほですね……。まあ、コンプレックスというのはそういうもんなんでね……。

考えてみればどんだけ文化度の高い文章を読んでも、そこに悪意がなければ「あら素敵〜」と思うだけで、傷ついたりはしないのである。結局のところ、私は当該文章を書いた人に対して、あらかじめ「負けてる感」があったというだけのことなのだろう。

しかし、向こうから勝負を挑まれたわけでも、誰かにジャッジされたわけでもないのに、勝手にあらかじめ負けているというのは、とても滑稽だ。自分でかけた罠に自分でかかっているみたいなものだからね。いや、でも考えようによっては、自分にダメージを負わせる可能性のある相手には不戦敗するこの習慣こそが、ややこしい人間関係のトラブルを引き起こす地雷を遠ざけるバリアになっているような気もしないではない。

これは自分にとって有価値だろうか無価値だろうか、自分はこれが好きだろうか嫌いだろうか、などと思わず考えこんでしまうようなものって、大抵自分にとっては何の価値もない。だって、本当に栄養になるもの、本当に好きなものに出会ったときは、そんなことを考えるまでもなく圧倒的に楽しくて嬉しくてニコニコしてしまうものだから。

 

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