うだうだと考える日記

読んだ本や観た映画、日々の雑事のあれこれ ネタバレはないはず。

虚構の中の現実『イーハトーボの劇列車』

井上ひさしによる宮沢賢治の評伝戯曲『イーハトーボの劇列車』を、長塚圭史が演出した舞台を観た。兵庫芸術文化センター。

 

劇場に着いてから館内の案内表示で「上演時間3時間半(!)」であることを知って愕然。な、長っ! 前半2時間、休憩はさんで後半1時間半ですよ。まじか。びびってとりあえずホワイエでシャンパンを頼む。目の前で新しいボトル開けてくれてうれしかった。るんるん

 

冒頭から、駅や列車を表現する効果音をステージ上の役者の生声でやったりしてるし、詩の断片が飛び交ったり、セリフなしで動作だけで表現されるような抽象的なシーンが続いたので「やばい。観念的なやつやん。寝てまう〜」と身構えたものの、だんだん抽象度が低くなり、途中は「具体的な言葉」が飛び交う論争劇のような一幕もあって盛り上がる。

 

結果、3時間半という長さを感じさせない濃密な舞台であった。素晴らしい。

劇中で十数年の時間がはっきりと流れるにも関わらず、ストーリーらしいストーリーはない。評伝といっても、宮沢賢治のいくつかの「上京」を軸に、間欠的に人生の一面を紹介していく、という手法がとられているのだが、これが秀逸。舞台上で描かれるのは、基本的に花巻−上野間の列車の中か、東京滞在中の賢治であり、普通に「宮沢賢治」といわれてイメージする「下ノ畑ニ居リマス」な土臭い賢治ではないのだ。

 

あるときは同行の母を気遣う気弱な息子であり、ある時は田舎を捨てる家出青年であり、ある時は田舎で信頼されている「先生」であり、ある時はきれいな服で文化的な浪費にいそしむ高等遊民である賢治。「ユートピア」や「農民」という概念は、賢治のこうした経済的文化的に恵まれた立場から生まれたものであり、百姓を取り巻く現実とは大きく乖離していることを、淡々とした表現から苛烈に浮かび上がらせる。

 

劇中のハイライトともいえる論争シーンがふたつあり、劇中、賢治と対峙する2人の論敵があらわれる。一人は父・政次郎、もう一人は資本主義者をカリカチュアライズした架空の存在・三菱だ。両者とも、最初は単純に賢治と対立する存在として登場するが、その位相は徐々にずれ、ねじれていく。

 

実業で財をなし、地域コミュニティづくりにも尽力した父は、絶対的な賢治のパトロンでもあり続けた。賢治のユートピアは、見方によれば父の掌の中に築こうとしたファンタジーにすぎない。賢治とはより圧倒的な対立があるかのように見えた三菱の中にも深い愛があり、違う地平から出発したはずの思想はやがて大きく重なっていく。強さと弱さ、善と悪、理想と現実……。相反するものというのは、結局のところ、相互依存しながらねじれた関係で共存せざるを得ないのだ。

 

劇中の賢治は弱い。体が弱い。立場も弱い。理想を語る美しい言葉は、実存的な強い言葉にかき消され、ときに説得力を失ってしまう。しかし、立場がねじれることによって生じた「現実のすきま」からしか生まれ得ない美しい思想や言葉というものがあるのだ。立場と行動が一致した百姓の貧しい暮らしからは、「村に広場があればなあ」という賢治の夢想は出てこないのだ。

 

それをしみじみと感じさせてくれたのは、父を演じた山西惇さん、三菱を演じた土屋祐壱さんの素晴らしい演技ゆえで、たいへんぐっときた。

 

しかし、やはりこの舞台の肝は主演の松田龍平だ。

 

芝居巧者に囲まれた賢治役の松田龍平は一貫して抑揚がなく、いかにも「でくのぼう」であった。わたしは舞台で松田龍平を観るのが初めてで(というか画面でもあまり観たことがない)これが彼自身のそもそもの持ち味に合致しているのかどうなのかよくわからないのだけど、彼のでくのぼうぶりは明らかに舞台上で破調をきたすほどにでくのぼうで、空間でぽっかり浮き続けている。「芝居」という虚構性の強い環境、さらには「宮沢賢治」という虚構性の強い題材に、ものすごく現代的かつ実存的な存在として浮いているのだ。

 

一般的には、宮沢賢治が現実の中の虚構として浮いていたようなイメージが強いが、その宮沢賢治を演じた松田龍平は虚構の中の現実として浮いているのである。浮き続けているのである。彼の周りにだけ強く「現代がある」といってもいい。

 

これぞ演劇にできることだなあ。優れた脚本を、いま、演じ直すということの意味だなあと。そう思いませんか。

何度も舞台を思い返している。

 

f:id:moving-too-much:20190309185146j:plain